「ある日、その時」(81) 2023年11月ー

<掲載内容>

901.勲章で飾る人々 902.Sneaky cabinet 903.何がおかしい、お笑い芸人 904.惰眠を貪る民は・・・905.ブギーマンたち 906.「頭から腐る」というが・・・907.代表作は?908.民主主義の理解度はやはり小学生並み 909.カルトは妄想し暴走する 910.デイム・マギー・スミスに謹んで哀悼の意を表します。(2024 9/27死去)911.ウクライナ戦線での北朝鮮兵の惨状

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911.ウクライナ戦線での北朝鮮兵の惨状


 このまま行けば、日本も同じ構造で、米軍の先陣部隊として多くの部隊が海外で全滅の憂き目に会うことは必定であろう。米軍が助けてくれる?どこまでおめでたいのか。ロシアが北朝鮮兵を助けているか、利用しているだけだろう。日米地位協定を出すまでもなく、日米がどのような関係にあるか日常レベルからわかることでもある。日本と米国との間では、売国、亡国と言ってもいい行為が、為政者と企業集団とで日常的に行われているのである。

                                                            2024 11/5



910.デイム・マギー・スミスに謹んで哀悼の意を表します。


彼女も、やはり舞台女優として出発し、1963年に、ナショナル・シアターでオセロ役のローレンス・オリビエ相手にデズデモーナ役を演じた。これだけでその実力は充分知れるが、因みに、米アカデミー賞2回、英アカデミー賞8回受賞している。以下BBCが的確に彼女の素描を描いているので、そのまま載せることにする。

「ダウントン・アビー」で共演した俳優ヒュー・ボネヴィルは、「ひとつの世代の本当の伝説」、「一度でもマギーと同じ場面に出たことがある人なら、彼女の目線がいかに鋭く、彼女のウイットがいかに鋭く、そしていかにとてつもない才能の持ち主だったか、同じように語ると思う」とBBCに話している。

 デイム・マギーは、古典から現代劇、悲劇から喜劇、貴族や魔法使い、ホームレスの女性やナチスの高官の秘書など、多岐にわたる役柄を限りなく多彩な表現力で演じた。その演技には無駄がなく、鋭く的確だった。劇場ではその空間と観客の息遣いを、時には沈黙をも自在に支配した。

また、彼女は大げさに扱われることを嫌い、自分の業績についても、「私はただ学校に行って、ただ演技がしたくて、演技を始めて、今も演技しているだけ」とコメントしている。

 残念ながら、日本にはこれだけの俳優は存在しない。賞なんてナンセンスよ、平然と言えてしまう受賞俳優がいる(これはマギー・スミスではないが、彼女はそんなことすら言わないだろう)社会と受賞で大騒ぎする村社会の住人との差でもあろうか。それもあろうが、文化の熟成レベルが根本的に違うのである。意識レベルとは文化レベルの違いでもある。

                                     2024 9/28

 


909.カルトは妄想し、暴走する


自民党総裁選、このような状態で成し得ていること自体があまりにも異常で、とんでもなくナンセンスである。しかし、この間の経緯を見ていると、自民党の誤算が明らかとなるばかりである。戦略的には、マスメディア全体を巻き込み、総選挙に向けた前哨戦として、クリーンなイメージでダーティーな現実を払拭させようと目論んでいたのであろうが、それはすべて裏目となって現れた。要する、やればやるほど自民党の醜悪なところが掘り起こされ、拡大され露呈されているのである。まんまと自分が仕掛けた罠に自らはまった恰好である。ここまで来ると、後は神頼み、カルト頼みとなる。無能な者とカルトは常に不即不離、場合によってはすぐに一体化する。すでに、壺自民と言われる自民党である、カルトと合体しているのは周知の事実。これから先は、カルトがいかに妄想し、暴走するかが問題となる。このような犯罪的集合体の温存継続は極めて危険で、解党、解体させるしか手はないのである。解党、解体させるのは今の内である。そうでないと、また一億総鉄砲玉になることを強いられる。

                   2024 9/18                                 

 

 

 

 


908.民主主義の理解度はやはり小学生並み


 俳優・松尾貴史のXに対して「そんなに政治に関心あるならいっそ政治家になればいい」という投稿があったらしい、それについて、松尾は「本当に、こんな愚かしい発想の人間が多くて困る」と歎いていた。それは当然である。戦後何十年も経って未だに民主主義政治が根付いていなどころか、朽ちかけているのである。今もって、民主主義に対する理解度は小学生並みという状態であることが、この「政治に関心があるなら政治家になれ」という言葉によく表れている。こんなことを臆面もなく言えること自体が、まったく民主主義政治というものがわかっていないということであり、これでは横滑り状態ですぐに独裁政治に移行してしまうであろう。今、現在、こんな犯罪者集団が政権の中枢に巣食って何事もなかったかのごとくに自民恒例の総裁選挙という泥沼祭りの最中である。こんなことを許している国など世界中探してもないだろう。この異常さも感じられないのでは、やがて、カルト仕立ての大日本帝国の独走である。

                  2024 8/19


907.代表作は?


「代表作は?」と聞かれることがあるという。彼は「次回作」と答えるという。なるほど、それも一つの答え方であろう。中には「これが私の代表作です」と誇らしげにいう者もいたが、作り手の一人として気恥ずかしくもなると同時に「遺作」にでもするつもりですかと意地悪く聞きたくもなってしまう。事程左様に、作家自身がこれが自分の代表作などと言い得るには難しい問題が横たわっている。自分だけでは決められないこともあるのである。だから、私の場合は、観客に委ねてしまうことが多い、具体例で言えば「私が今までに見た舞台で最高傑作でした」などという手紙までくれた観客の反応に委ねてしまうということである。その観客は3回も観に来てくれたらしいが、それは興行的にもかなり良かった作品(「真夜中のサーカス」)である。しかし、それが代表作だとも思わぬからその後も続けられたのである。私にとっては、いろいろな意味で忘れられない作品の一つであることに過ぎない。「母を思い出し涙が出てきた」という作品もあり、「父のことが甦ってきた感激した」という作品もあり、「素晴らしい感性に溢れていた」という作品もあった。観客の反応の良くなかった作品でさえも、思うようにいかなかったこともあるにせよ、その時その時の自分の精一杯の思いであることに変わりはない。どれが代表作かなどということは、残っていればの話だが、「あっしには関わりのない」周囲の者、後の世の人々の判断でしかないのである。だから、私も「代表作は?」と聞かれたら、「次回作」と言うかもしれない。

そう言えば、「真夜中のサーカス」は、三島由紀夫と姉弟とも言われるほど親しかったんNLTの座長・賀原夏子さんも来ていた。賀原さんは私の実母と同じ年に亡くなられた。賀原さんは、一般的には、優しいおばあちゃん役として知られているが、様々な映画、舞台にも出演している。中でもジャン・ジュネの「女中たち」、戦後最高傑作の戯曲と評価される三島由紀夫の「サド侯爵夫人」の舞台にも出演している。さらに、世界映画史に記念碑的作品として残る「狂った一頁」の監督・衣笠貞之助にスタッフとしての視点も買われた女優である。彼女が後年、演出している時の方が面白いと言っていたことも頷けるのである。因みに、「サド侯爵夫人」は、ベルイマン監督の演出した舞台はかなり評価が高い。ベルイマンの監督作品に親しんだ者としては充分に納得できることである。これは三島自身も観たかったであろうと思われる。私自身が、今までなぜ三島由紀夫の作品をとりあげなかったかは言うまでもなく、あまりにも彼の存在が肯定するにせよ否定するにせよ、身近にありすぎて距離を置けなかったこともあるが、その作品の完成度と具体的な日本の演劇状況の問題もあった。どのような結果になるかわかり切ったところで敢えてやる意味はないと思っていたからである。三島自身も西欧の題材を取り上げて、それを新劇の俳優がどのようにやるかは見当がついていたことでもあろうが、その「ズレ」も楽しんでいたのであろう。

            2024 6/14ー6/19ー


906.「頭から腐る」というが・・・


 少なくとも、民主主義の国では、「頭」とは国民のことであるが、その国民が監視を止めた結果が現状であろう。国民の代表の位置にいる者が、いかに国民の監視を反らし、「政治不信」に陥らせ、監視の位置から遠ざけることに腐心してきたかは、その経緯を見れば一目瞭然。監視の手を止めれば、監視される側はやがて腐るのは当然なのである。人口の半数近くが「無党派層」などと呼ばれ、あたかもそのよう存在規定が成り立ち、存在理由があるような社会自体は異常なのである。「無党派層」とは一体何者なのか?それは支持政党なし、投票したい人がいないなどということで括れるほど単純な集団でもなく、彼らは民主主義国の「住人」ではあり得ないことは確かで、善人でも悪人でもない怠惰なエゴイスト集団と見るのが現実的であろう。今まで、政官財+壺系カルトによって、手を変え品をかえ、四六時中洗脳し尽くされた集団というのが実情のようだ。どちらかと言えば、主権在民も基本的人権の本来の意味もわからず、そんなことは夢のまた夢くらいにしか思えないようにさせられてしまった非自由民(=奴婢)に近いだろう。「無党派層」というのが何か恰好のよい、無難な処世術くらいに思っているところもあるが、それはすべて幻想である。それにしても、5000万人程が「無党派層」で、それもその多くが「棄権層」でもあるというから、これはいつ独裁国家になっても不思議ではない。もうすでに独裁国家になっていることも認知できないのではないか、今、辛うじてある自由も、このままではその内消えるのである。

          2024 4/23

※書きなぐったメモが、すでにアップされていた。何らかのエラーであろう。

 

 


905.ブギーマンたち


 トランプは、スティーブン・キングに、自分の作品に登場するどのブギーマンより怖いといわれた御仁でもあり、アメリカ大統領史上最低の知性の持ち主ともいわれた人物である。それがまた大統領としてやる気十分というより、身から出た錆を払拭せんがための止むに止まれぬ出馬というのが実情のようで、その点ではネタニヤフとも共通点がある。要するに、止まれば倒れるしかないのである。しかし、このようなことを許している周囲も情けない限りである。一方では、史上最高齢といわれる、その判断力、記憶力も危ぶまれる大統領の続投の気配、これだけでもアメリカの衰退は明らかである。

 ブギーマンを凌駕する現実のブギーマン トランプとネオ・シオニズムのブギーマン ネタニヤフ、そしてKGBのブギーマン プーチン、これらの想像上のブギーマンを遥かに超える現実のブギーマンたちに世界が狂う日のないこと願う。誤解を恐れずにいえば、私は彼らを「人間」(既成の概念)として見ていない。

因みに、ジャーナリスト、外交官、政治・経済学者などの一見分析的見解はもう聞き飽きた感がある。新たな発見などは皆無に等しい。総じて、現象面ばかりの言説が多く、切込みがなく、聞いても聞かなくても、何も自分の問題として残らないのである。

             2024  3/5

 


904.惰眠を貪る民は・・・


「目を覚ますべし」といくら言っても、惰眠を貪るだけの「民」に対しては無駄であろう。そのような「民」が言うことは、決まって「政治なんて所詮こんなもの、まあいいんじゃないか自民党で」、「うちらには関係ない」等々。DNAレベルで注入された「奴婢根性」そのまま。何を見ても他人事、我が事としてみるのも億劫で、想像力は根元から断ち切られている。惰眠を貪ることが許されれば、それで充分と言わんばかり思考回路自体の欠陥に気付かない、気付かないように持って行かれていることにさえ思い当たらない。ただ、今回の状況は、その惰眠さえままならないほど危険であるというということである。しかし、惰眠のまま餓死というのも厭わないほど人間そのものが壊れていれば、そこで終わりで、後は「生きようとする者たち」がどこまでやれるかにかかっている。

          2024 2/10


903.何がおかしい、お笑い芸人


 今、辞めるの辞めないのと騒いでいるまったく興味もない松本何某というお笑い芸人、日本で「売れている」というのはこの程度の粗悪品である。女狂いの言い訳のような「遊びは芸の肥やし」などということがもっともらしくどこかにまかり通っているのであろうか。それにしても、「遊びがせこすぎる」(タケシ)などと言われてしまえば、それまでである。言ってみれば、遊びがせこいから芸もせこい、芸の肥やしになっていないといわれているようなものである。芸もせこい、遊びもせこい、人間もせこいとしか言いようがない者がどうして使われる?要するに、質の良くない時の壺政権と同調し、取り込まれていただけに過ぎないということである。芸そのものが独立して成り立っているとはとても思えない。人を笑いに誘うというよりも貧相な対象を笑って強引に笑い声を上げているだけ、何を笑うかによってその人間の資質は見えるものであるが、この男の笑う対象がこの男の人間性をすべて現わしている、すなわち徹頭徹尾、下種(ゲス)なのである。もうこれ以上民度を落とすことは止めてもらいたい。こんなのを観て笑っているようでは笑っている方もいつしか下種男である。これも一種の洗脳なのである。質の悪い壺政権も下種と鷹に餌を与える方法をよく知っているのである。

 CMに相方と出てくる彼らを見るたびに、追い詰められた三下奴が詐欺を働く時はこんなものであろうと思っていた。まったく笑えない。

              2024 1/19

 


902.Sneaky cabinet


 何もかもがスネイキー、すなわち、こそこそと人の知らぬ間に勝手に事を進めてしまう内閣、それも重大なことをである。国民の知らぬ間に、主権者たる国民の同意を得ることもなく、知らぬが仏とばかりに何もかも決めてしまう状態、明らかに非民主主義国家、緩慢なる弛緩した独裁国家といってもよいだろう。このような「建付け」では、放置してもやがて倒壊するが、その前にこのような「建付け」の「構造物」は壊さなければならない。そうでないと国民の犠牲者はさらに増え続けるということである。現在、陰でこそついている彼らの動きをチェックする検知器の役割を果たすものが皆無に等しいので、ぼーっとしてると、気が付いた時には身動きもつかないどころか意識もないということになりかねない。どちらにしても、この「建付け」の悪さは土台からきているので建て直すしかないのである。そうでないと、日本の民主主義国家としての発展はあり得ないということである。

                 2023 12/22

 


901. 勲章で飾る人々


 よくもまあ、こんなにいろいろな勲章があるものだと感心する。それも様々な色付けがなされ等級づけられている。某国の軍人の胸一面に飾られた勲章を見るたびに吐き気を催し、噴飯を繰り返していたが、勲章を喜ぶ人間の本性を象徴しているのであろう。同時に、勲章の意味もその程度のもので、時が経れば二束三文の金属片に過ぎない。実際、我が家にも以前、祖父、父の勲章が数えきれないほどあったが、子供のおもちゃとなっていつの間にかどこかに消えて行った。いつだったか、古道具屋に大綬章やら文化勲章が出ていたこともあったが、「お国」から戴いた勲章でしか自分の存在意義、価値を見出せないとは何とも「オメデタイ」「お手軽」な人々だと思っている。最近でも、晩節を汚すような行為をしたにもかかわらず、そのような御仁が受勲しているのであるから、何をか言わんやである。因みに、私は、幼少期に健康優良児のメダルを貰ったきりで、幸いにも、メダル、勲章の類はまったく縁がない。

                            2023 11/19

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