ここまで来ると、自分が「何屋」であろうと、政治面についても言わざるを得なくなってくるのが極自然な流れである。損得勘定から見れば「沈黙は金」、「雉も鳴かずば打たれまい」、「天下国家など論じるつもりもない」などの姿勢が賢いようにも見えるが、それでは主権者の姿勢からは乖離するばかりか、実のところ自らの命も危うくなってくる。あまりにもクレイジーな政治の現状は、そのような一見恰好のいい姿勢そのものが積み重なった結果でもある。特に、現政権与党の「政治家」の言動は理念なき「泥水」のように変貌するとみるのが妥当で、放置すればいつの間にかとんでもないところに自分が「いる」、というより「いさせられる」ことにもなりかねないのである。その時になっては、もう遅すぎて手も足も出なくなっている。
ここまで人物的にも国民から信用されていない者が、それも疑惑の主犯格の者が内閣改造をするという無意味さ。また、それに集う者たちも例外なく「共犯者」であることを認めたということに過ぎない。まさに取り残された島国政治である。そして、またここで繰り広げられる「泥水」のように姿形、心性までも変える理念なき者たちの二番煎じの茶番劇。内状は三文ドタバタ笑劇よりもひどいが、それを見据える者は笑いながら切り捨てるか、黙って切り捨てるかのどちらかくらいしか思案のしどころはあるまい。
2017 8/6