「ある日、その時」(75)2019年11月ー

<掲載内容>

823.「正史」? 824.フランシスコ教皇に見る世界宗教のレベル 825.「桜を見なかった会」826.イチローのメッセージ 827.グレタ・エルマン・トゥーンベリ(環境活動家)のこと 828.杜撰な教育指針 829.「推定で有罪」のお二人様、二人合わせてトランペット・・・830.「政府が新型コロナ感染情報に苦慮」?!831.日々追われている身には・・・

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831.日々追われている身には・・・


 早いもので「ある日、その時」というカテゴリーを使うのも1か月ぶりである。もう少し時間が取れれば、このサイト全体も今の倍以上の400字原稿用紙で5000枚程度にはなっていたであろう。主に備忘録として使っているが、便利なところは、キーワード検索で以前書いたものが簡単に呼び出せることである。しかし、最近では、今年1月に予想した通り、次から次へと人間の「愚行」が転移、増殖を繰り返し最悪の事態に突き進んでいる。そんな状況の中では、今までのことを検索確認する間もなく現時点での外科的作業を強いられているといった具合であるが、日々追われている者にとっては、今のこの時間だけが、一瞬一瞬が途方もなく大きい。ありがたし、それは古語的意味の「あることがむずかし、めったにない、尊い」という意味である。私は、今、ありがたき時の連続を生きているともいえる。

                                  2020 3/16


830.「政府が新型コロナ感染情報に苦慮」?!


正確に言えば、感染情報「操作」に「苦慮」しているということであろう。情報開示をしないのは何もこの新型コロナ感染情報ばかりではない。法的には(感染症法16条)国と都道府県に対して「発生状況や予防に必要な情報を積極的に公表しなければならない」とある。「国があまりに情報開示しなので、違うやり方でやっていく」という知事が現れるのも当然であろう。(1月下旬)。奸計か無能なのか、概して無能な者の奸計とは斯くあろうと思われる。それが是か非かはやがてその結果として現れる。これもまた彼らの奸計で隠し通せる事象でもないのである。

                              2020 2/15


829.「推定で有罪」のお二人様、二人合わせてトランペット・・・


「推定無罪」が成り立たない二人とは、周知の通り、絵に描いたような主従関係にある日米の、大統領と首相である。権力側の位置にある者にルール違反が発覚すれば、物的証拠の有無などに関わらず、状況証拠だけで「推定で有罪」なのである。「推定無罪」などというのはそもそも一個人を守るものであって、権力側にいる者たちの擁護のためにあるものではない。したがって、三権分立さえ定かでないような司法の判断、御用の筋のご立派な講釈などとはまったく関係なく、我々にとって彼らは明らかに有罪なのである。有罪である者が、今なお説明責任も果たさず、責任も取らず、したり顔でオリンピックの「気運」に乗じて「改憲」を訴えているのである、これはどう見ても狂っているとしか言いようがない。米国では精神科医たちがトランプに精神鑑定を受けることを求めているが、当然であろう。日本もまったく同様であるが、米国と違って批判する側が総じて自主規制という去勢された道を選んでいるため、「多くの者たち?」がこの狂態の本質に気付かないようになっている。しかし、それを見抜けないようではやはり白痴化しているのである。昨今では、またぞろ性懲りもなく得意げにマキアベリなどを取り上げ彼らの現実政治の正当性を説く提灯持ちなどが現れている。どうにも始末に負えない輩であるが、提灯持ちは所詮提灯持ち、いつの時代にもいた者たちで、それ以上の者では決してありえない。多くの者たちにとっては、それは百害あって一利なしであることは間違いないのである。

2020 1/22

後日、トランペット、否、トランプの弾劾裁判の結果は案の定「無罪」のようだが、そのようなこととは全く関係なく、やはり狂信的支持者でもなく、利害関係のない「多くの者にとって」は有罪なのである。因果応報という明快な因果律はどのような詭弁を弄しようとも覆ることはない。それはやがてわかる。

そして、あのスティーブン・キングに、トランプは自分の作品に出てくるどのキャラクターよりも怖いと言わせた「人間」であることを忘れないことだ。当然、小振りではあるがそのペットも同様である。そのことを一瞬でも忘れればすぐにまた蘇る「人間もどき」と知るべし。

さらに言えば、トランプについての各人の好悪を度外視すれば、彼は非常に「有能なビジネスマン」なのである。そこを見落とすと本当の怖さはわからないであろう。それは行きつくところまで行ってしまった新自由主義の、ポストモダンの典型的な具体例でもある。(3/5)

               


828.杜撰な教育指針


 それは、もはや止めることが困難になっている少子化と重なり、亡国の道しるべともなっている。アメリカの例をとれば、最先端の研究をしている学生が哲学書を読むのがごく普通のことになっている。一方、日本ではどうか、最先端の研究をしている学生はただその分野のみに専念するように仕向けられるだけではなく、人文系の学部、理系の根幹となる基礎的学問領域さえ排除、削除されようとしているのである。マッドサイエンティストがいつでも登場する土壌である。目先の結果ばかりに追われて思考の根幹を形成するのに欠かせない領域を疎かにすれば、それは大した成果も得られぬまま、やがてマッドなものに収れんされてしまうという安易な道筋をつける。無形なものの大きさを知らぬ、具体的な目先の生産物しか目に入らぬ拝金主義的な愚者に文化を語る資格はない。文化の何たるかもわからぬ者に教育を任せては滅びへの道しか残されていない。

 少子化とは、国民の前意識に蓄積、形成されてしまった、この社会に対する拒否反応なのである。こういう社会を作り出している者たちに対するSilent protest(無言の抗議)でもある。

                                2020 1/4


827.グレタ・エルマン・トゥーンベリ(環境活動家)のこと


 彼女の言っていることは正しい。それに伴う行動も当然の帰結である。それについての講釈も否定的な感想、批
判などもすればするほど自らの怪しげな立ち位置を露呈させるだけである。中には、彼女を裏で操っているいる 者がいるのだろうなどと言う者までいるようだが、想像力の貧困さ、文化レベルの低さ、アコギであることを露呈しているだけである。言ってしまえば、既得権益側の利害しか頭にないにもかかわらず、それを何かこじつけてもっともらしくまとめようとするからおかしくなるのである。それ自体が大人げないのである。彼女の言っていることを認めることが、自分の全存在を否定されたかのような恐怖感を生じさせ、妙にヒステリックな反応を生むのであろう。しかし、今すぐライフスタイルを変えることは難しくとも是は是、非は非という認識すら消し去ろうとすればやがてすべてが歪められ、「想定内」の最悪の事態を招くことになる。その「歪み」も今は限界点にきているのである。このまま行けば「思ってもみない」カタストロフィを迎えるのは明白なのである。「思ってもみない」などというのも、実は欺瞞である。

 現状のまま、目先の経済最優先で進めば、我々は後世の人々からグレタ以上にもっと激しく糾弾されるであろう。必然的に発生する過当競争の中で、我先ばかりが重んじられ、後は野となれ山となれがその経済活動の要諦であり続ける限り、今後もグレタたちの抗議と既得権益側の対峙は続くであろう。そして、後々、「歴史法廷」に立たされるのは為政者ばかりではないことは覚悟すべきである。

                                 2019 12/28

 2020年1月23日、スイスで行われているダボス会議で、米国の財務長官スティーブン・ムニューシンがグレタに対して「脱化石燃料を訴える前に大学で経済を勉強してほしい」と言ったそうだが、凡俗な応答でやはりその器量のなさが浮かび上がる。大学で学位をとってもこの程度であることを自ら証明しているようなものであろう。「科学を理解するのに学位は必要ない」と言うグレタの方が明快である。米国の財務長官?いつから?現状のアメリカ経済はどうなのか?社会はどうなっている?ほんとうの大人としての真の器量を持ち合わせているのならもう少しましなことが言えるだろう。要するに大した力量もないということである。日本でもそうだが、経済原論もろくに理解していない金計算しかできない経済学士はゴロゴロいるのである。当然、この財務長官と同調してわが意を得たりと得意になっているお里の知れる者たちもいることであろう。実は、その同調が一番安易な道であることを忘れないことだ。

 因みに、スティーブン・ムニューシンはトランプ陣営の財務責任者でトランプとは同体化している。

                                2020 1/24

追記:グレタに対する凡俗な応答は、プーチンも然り。中国なども同様であろう。要するに、現前の権謀術数、政治力学だけで、肝心要の「器量」が不足しているのである。これでは現実を正確にとらえるどころか見ることさえできまい。だから、現実に潜む危険因子の所在さえ見誤るのである。グレタは理想など一言も語っていない、「現実そのもの」(現にある状態)を語っているだけである。言ってしまえば、権謀術数、政治力学で絡め取られている者たちには、実は「現実そのもの」が見えていないということなのである。

                                2020 1/26

2020年2月6日、ハリソン・フォードは私の好きな俳優の一人であるが、やはりグレタを称賛していた。良識も器量もある本当の大人である。彼は、「環境問題や移民問題における米国の『道徳的リーダーシップ』は崩壊した。」と言い、また、「われわれは道徳上のリーダーシップを必要としている。私たちは己の信頼性をいくらか失い、それを取り戻そうと躍起になっている。」とも語っていた。その通りであろう。何もかもを相対化させ、人を殺すことさえ一つの意見、見解として成り立たせてしまうような変幻自在な入れ子構造そのものに対する危機感でもある。

 やはり、そこにはカントの「定言命法」のようなものが必要になってくる。すなわち「汝の意志の※格率が常に同時に普遍的立法として妥当するように行為せよ」、すなわち、「汝殺すなかれ」ということである。それすら、相対化して「そのような説もある」ということで済ましているのでは、「人間の範疇」からは外れて行くだけなのである。だから、「己の信頼性」を失い、それを取り戻そうと躍起にならざるを得なくなるのである。しかし、それが誠実な本当の大人というものである。それは当然、トランプなどを見ていれば、「米国の道徳的リーダーシップは崩壊した」と言わざるを得なくなるのである。

※格率:行為の個人的・主観的規則

                                2020 2/8


826.イチローのメッセージ


 少年たちに向けられたイチローのメッセージの中に、「3000本安打達成までに6000回の失敗がある」というのがあったが、それは失敗を失敗として教訓化し、さらに前進する者の基本的なスタンスでもあろう。失敗を失敗とも思わず、都合の悪いことはないことにするような者たちには決して明日はないということでもある。失敗、過ちを自己正当化したり、美化しても何ら将来につなげることはできないどころか縮小再生産を繰り返しながら朽ちるだけなのである。失敗、過ちは、そのすべてを引き受ける以外に、新たな展開発展の道はないということである。イチローの言動と存在がそのすべてを語っている。

                                2019 12/22


825.「桜を見なかった会」


 「桜を見る会」は「桜を見なかった会」ということであろう。これ程までに隠すとなれば、どのような推測、憶測、推定も可能で、たとえ妄想であったとしても否定することはできなくなっている。執拗に隠すということは、それを許したということである。証拠の有無に関わらず、どのように言われてもそれを完全に打ち消すことは全く不可能となっている。自らその証拠を隠匿、破棄しているのであるから、それは自業自得でもある。この件についてはあらゆる想像が可能なのである。そして、その想像力を阻害することはできないということである。

 選挙区住民、反社、フィクサー、武器商人、日本のカルト集団、裁判長、学者、評論家、メディア・・・有象無象のタレント・・等々、今までお世話になった人々の接待並びに勧
誘・・・・・

 花愛でる 人もなしやの 櫻花 散りゆく時の 哀れさもなし

「桜を見なかった会」は、その後、桜など一本もないところで「夜桜を見る会」を催したと言われたとしよう、たとえそうではなくとも、催すことがごく自然の流れのように見えてしまう。そこで何を話したかなどは「文脈」から割り出される状況証拠で充分である。決定的証拠は公然と自らすべて破棄しているのであるから、何を言われても当然なのである。このような事象に関しては、「無罪の推定」はあり得ない、飽くまで「推定で有罪」なのである。どのような裁判所でどのような判決が出ようがそれは変わるところはない。

 しかし、ほんとうに見せたくない、見せられない、真実なのであろう。これを小事扱いし、仕立て上げることに躍起となる者たちの馬脚も丸見えである。小事は大事ということを知るべきである。大事とは、この場合民主主義の実質的な完全崩壊である。

                                 2019 12/5


824.フランシスコ教皇に見る世界宗教のレベル


 教皇の言動から見えてくるのは、さすがに世界宗教のレベルの高さである。世界宗教と単なる民族宗教との違いは何と言っても、いかに「知性」と向き合っているかである。「八百万の神」などはどの国の民族宗教レベルにもあることである。民族宗教は、世界宗教が持っているような明確な哲理がない上に展開の余地もない自己完結にすべてを収れんさせているのである。したがって、その言動も普遍性のあるものとはなり得ないのである。哲理のない民族宗教は容易くカルト化し、権力には都合のよいものとなる。民族宗教の特殊性をその民族特有のものと勘違いし、その民族の優位性の根拠とするような方向にもっていくことは、普遍性とはかけ離れるばかりである。それでは取り残されるのが必定なのである。そこに見えるのは、どのように粉飾しても独りよがりな閉ざされた未来しかない。

 教皇の簡潔で、明快な言動には世界の動きと一体化した知的裏付けがある、と同時に世界と共に「ある」という思いが伝わってくる。

                                

                                2019 11/25


823.「正史」?


 正史とは、「正統」の歴史、国家が編纂した正統を明らかにする歴史書とある。さも権威ある正当な歴史書の体裁をとっているが、その実情はまったく異なるということである。日々繰り返されている現実の状況を見れば明らかで、その実例には事欠かない。要するに、都合の悪いことは糊塗、ねつ造、改ざん、消去、最近ではシュレッダー処理らしいが、これがその実態である。一応、民主主義国家と称されるところでこれなのである。権力がさらに集中した国家では、焼却書類で煙が止む暇もなかったであろうと思われる。どれだけ貴重な真実を告げる記録書類が消滅していったか想像に難くない。

「正史」というものを、そのまま鵜呑みにするのは愚かであるということは、現状を少しでも見据えることができれば明白なことなのである。「専門家」などと言われている者が、この「正史」を手掛かりにして重箱の隅を突っつくようなことをいくらしても何も浮かび上がってこない、というより真実とは乖離するばかりであろう。「正史」の在り方自体が、根本的に真実を伝えるものではあり得ないからである。

 古文書、古記録なども、それを書き記した社会的「位置」なども考慮しながら、論理的分析と同時に総合的な判断が必要となる。したがって、単なる訓詁学的アプローチ、古文書的領域だけではとても収まりきれるものでもなく、成し得ず、またその全体像は見えてこない。重箱の隅を突っついて悦に入るのと、歴史に学び、そこから何かを見出そうとする姿勢とは根本的な違いと質的差異があることは言うまでもないこと。どちらが、今生きている者たちを息づかせるかは明らかで、それがないものは衰微するしかないのである。

                               2019 11/24

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