<掲載内容>
779.国史改ざんの「現場」 780.日本人が「日本」に酔ってどうする?781.「賢く生きろ」の結果がこれである 782.「記憶にない」と言う者たちとは 783.やはり、「毒々しい虫のよさ」である 784.「異邦人のムルソーを生み出す現代日本」? 785.ある日、我に返ったら 786.「悪しき古き人々」に再生の道はない 787.徒に100歳生けらんは 788.焼かれるのも順番待ちとは 789.西郷隆盛像で見えてくるもの
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789.西郷隆盛像で見えてくるもの
一言で言い切れば、日本人好みに作られた虚像で、西郷隆盛の像からイメージされるものとその実態とはまったく異質であるということである。私は以前から西郷隆盛のような人物に違和感と同時に不信感を持っていたのでなおさらであるが、要するに、目的のためなら何でもあり、何でもするという手合いの典型なのである。したがって、その目的を成し遂げるためのアドレナリンジャンキー的な「情熱」は半端ではない。だから、騙し、策略、殺戮などは日常茶飯事ということになる。実際やってきたこともその通りであろう。天皇の命令さえねつ造する、単なる暴力装置「赤報隊」(後に西郷自身によって処刑される)を組織する等々。知性もない、緻密さの欠如した熱に浮かされたような行動に走る者、巻き込まれる者たちの最期は決まっている。西郷と人たらしの戦争屋とどれほどの違いがあるのか、もっともらしことが何とでも言えたということくらいではなかろうか。
あたかも明治政府に対する人々の反感を集約させたように映った西郷隆盛、その像、イメージなどに騙されていると、いつまで経っても同じ手合いを生み、同じような手口で騙されることになる。いつまでも愚かしい幻想から解き放たれないと状況は劣化するばかりであろう。現に明治150年、黒船来航以来何が変わったのか、不平等条約の内容はさらに悪化する一方ではないか。脳も芸もないとはこういうことで、自分で自分の首を絞めて「してやったり」とは、ポーズと自虐趣味も前代未聞である。とことん騙されて堕ち行くか、一矢を報いるか、民となるか国民となるのかの瀬戸際でもある。どちらにしても「負」はすべて一般人が背負うことになるので知らぬ存ぜぬでは済まされないのである。
2018 9/2
因みに、NHK大河ドラマは今まで見たことがないので当然最近やっているという「西郷どん」などもまったく見ていないが、スポーツ紙の芸能記者がその「西郷どん」について、視聴率の低迷もあってか、「全体に暗く、スカッとした明るさが足りない」云々などと言っていたが、歴史物、それも実質「テロリスト」としかいいようのない人物とその周辺を取り上げて「スカッとした明るさ」はないであろう。だったらドラマなどやらずにミーハー路線でスポーツ追っかけていればいいではないか。創作意図もすでにみえているので原作も読んでいないが。歴史上の人物を安易にとらえて偶像化したり、身近なところに引き寄せて理想化するのは極めて危険である。スカッと明るく「テロリスト」を描くのか、ミーハーの怖さである。これでは世界の実態の一片の姿さえ見えてくることはない。
788.焼かれるのも順番待ちとは
団塊の世代が終焉を迎えることで、しばらくは医療産業、葬祭業が活況を呈するのであろう。菩提寺があっても家を継ぐ者がなければそれまでのことである。大方の者にとって家のローンが終わるころには墓探しである。それも適当なものが見つかるとは限らない、さらには焼き場さえ順番待ちである。人生ここまでままならないとは思ってもみなかったのではないか。そうかと言って、インドのようにガンジス川に生焼けの遺体が流れていても、その前で結婚式を挙げられるほどの信仰心と人生に対するコワな信念は「我々」にはあるまい。止むにやまれず、あるいは敢えて望んで散骨葬をするのもよくわかるし、それは文字通り合理的な方法でもある。
最近では、海、山に散骨するだけではなく宇宙葬というもあるらしい。どちらにしてもそれらは生きている者の思いに添うという意味合いの方が強い。
本来、墓などはどうでもいいことなのである。釈尊にすれば、「野ざらしを心に風のしむ身かな」なども未だしといったところであろう。野ざらし(されこうべ)、野垂れ死にすらその心にはないはずである。それは飽くまで死体の一様相で死そのものではない。そんなことに思いを馳せたり囚われているより今やるべきことがあるであろうということである。私にとっては、すべての墓は名前の刻まれた「無縁仏」でしかない。無縁仏の意味するものが、過去世において仏と因縁を結んだことのないということでも、弔ってくれる縁者のいない死者ということでも同様である。弔ってくれる縁者の有無など取るに足らないこと、やがてはなくなるのが必定なのである。墓石なども100年200年もすればすぐに苔むす石ころで、さらに天変地異の多いこの地では苔むした石の所在さえ定かではなくなるだろう。
2018 8/23
787.徒に100歳生けらんは
最近、なぜか100歳を過ぎた人々の「おめでたい姿」とやらをしきりに紹介しているが、何が「おめでたい」のかさっぱりわからない。それも、食事と笑いが大事などというところでまとめようとするから「違和感」以上の気持ち悪さを感じてしまうのである。「徒に100歳生けらんは恨むべき日月なり悲しむべき形骸なり」という教えさえあるであろう。へらへらと笑って食って、考えることもせず、何も気づくこともなく100歳を生き延びたところで何かあるのか、それは単なる形骸、すなわち生きる屍ということにしかならないと言っているのである。そんなことよりともかくオリンピックを前に100歳を過ぎた高齢者がとにかく元気に過ごしている「アンダーコントロール」された「幸せな国」ということを印象付けたいのであろうが、むしろ逆効果でこのような高齢者の姿を見て誰も100歳まで生きたいとは思わないのではないか、また、そんなことができるのは限られた一部でしかなく、大方はそれどころではなくさらに悲惨なのであるからなおさらである。
2018 8/9
追記:戦争中、激戦地から奇跡的に帰還した100歳前後の人々の戦争について語る瞬間については100歳の齢を重ねた意味もあると思われた。辛く思い出したくもないであろうが語らねばならないのである。
786.「悪しき古き人々」に再生の道はない
次から次へと悪しき古き者たちの悪行の結果が雨後の筍のようである。どれもこれも見苦しい釈明、開き直りばかりで、謝罪、再生の決意表明など聞いてもどうにもならないのである。そんなことで解消できるほど事は小さくない。すべては彼らの存在自体、在り様が問題なのである。彼らの存在そのものが問題なのである。したがって、彼らの存在が継続する限り再生の道はないということである。謝罪、決意表明などで事足りる程、事態は軽くもないし、それで済むはずもない。まずは悪しき古き人々は去るべきなのである。それがすべての始まりであろう。これ以上その醜悪な姿をさらしてどうするのか?
2018 8/3
785.ある日、我に返ったら
ある日、我に返ったら孤独であった。それは穏やかで心地よいものでもあった。まず、誰に踊らされることもない、煩わされることもない本来の「我に返る」ことが先決なのであろう。人間は本来的に孤独なものであることに気付けばいいだけのことであるが、孤独であるから「我に返る」わけでもない、「我に返る」ことが本来の姿であって、その姿が結果的に孤独の様相を呈しているだけで、実は孤独でさえあり得ないのである。むしろ、「我に返る」ことがすべての「出発」の大前提となる。常に群れ集い、何者かに頼っている内は「我に返る」ことはできない。「我に返る」ことができなければただ流されるだけの、ただ踊らされるだけの人生を送るより手立てはないのである。しかし、現在進行形の中で「我に返る」ことが悲惨な現実しかもたらさないこともある。要するに、「我に返る」ことができないのである。その段階では自らにも嘘をつき通すことでしか生きることができなくなっているのである。その人生は嘘の塊と化すがそれでは身が持たないので嘘の合理化を図るのが常である。場合によっては、どんな悪いことでもいったん自分がやらかしてしまった以上は美名をつけてごまかしてしまえということにもなる。ここに至っては自分のなした行為について「説明責任」などということをまともにやる人間がどれほどいるのかということにもなり、またそれを期待する方もあまりにもオメデタ過ぎるということになる。現状は、本来なら追及すべき機関までが癒着で機能不全なのである。「説明責任」の有無などということで済ましていては、ますます状況を悪化させるだけである。
2018 7/22
784.「異邦人のムルソーを生み出す現代日本」?
「異邦人のムルソーを生み出す現代日本」と題した文章の中で某作曲家は、「ムルソーの感覚は、新幹線のぞみ号で三人を殺傷した小島一郎容疑者や、交番を襲撃し二人を殺した島津慧大容疑者と同じだろう。」と言う。しかし、それは全く違うといってよいだろう。やはりそのような見解自体が一頃カミュやサルトルの「不条理、とか実存主義とかにかぶれた」程度の人々と見なし得る要因ともなる。ムルソーは状況内で徹頭徹尾「素直」に反応しているだけなのである。だから「異邦人」なのである。加害者の二人は「単なる狂人ではない。もちろん、その心情はまともではないが、人生に絶望し、行き場のないむなしさを抱えていたのであろう。」と言うが、その点についてもムルソーとは異質である。ムルソーはもちろん狂人でもなく、その心情はあまりにも赤裸々で、絶望、行き場のないむなしさとも無縁である。彼は殺人の動機として「太陽がまぶしかったから」と言うが、それは余計な粉飾のすべてを取り除けばそれが瞬時の直接的動機としては充分成り立ち得るものである。そして、「今日、ママンが死んだ、もしかした昨日かもしれない」にしても、そこからすぐに「母親の死にも無感情」でという通り一遍の解釈しかできないのは、本質に先立つ実存というものの在り様からは程遠い。それは単に日常性の中に埋没したカラクリの中のしだらな感情から見れば、「違和感」を感じるということに過ぎない。説明的な通り一遍の感情を持つことで世人、裁判所も納得するというのは、人並な感情を「演じる」こと、嘘をつことでしかない。「歪み」によって生じたもの、すなわち「個性的な感情」というものにウソをつくことになるのである。言っておくが、この「歪み」はムルソーに限らず万人にあるということである。だから個から発した素直な感情の流れそのものが逆に「異邦人」を形作るのである。先の加害者二人は「作られた」自分に気付くことも、対峙することもなく閉塞感のなかで押しつぶされた許されざるあわれな者たちということにならざるをえないのである。
この作曲家氏は、日本中に蔓延しているこのような閉塞感の元凶は安倍政権であると言っているのであるが、その点については同感である。しかし、
もう一つ、付け加えれば、現状を見るにつけ「絶望感が深まるばかり」というが絶望感は基本的に深まらない、その内に腐臭を放ち始め、朽ちるだけである。絶望は到達点ではない。すべての出発点である。救いようのない絶望ですらそうである。そうかと言って、安っぽい希望、未来、夢などにすぐに引きずられているようではまともにものも見えずに一巻の終わりなのである。
2018 7/7
783.やはり「毒々しい虫のよさ」である
追及されてなお、ふてぶてしい態度の昨今の「政治家」などを見ていると、「後悔や内省は若い、批判などからは完全に目をおおったところで『人間ができた』とうことになり、それが恰も人生の深処に徹したかのごとくであるが、根底には功利的計算があり、悔いるべきところを悔いまいとする毒々しい虫のよさがある」というようなことを言った坂口安吾を思い出す。要するに、彼らは「一途に毒々しい」のである。もっともその程度のことは顔を見ればわかることでもあるが。「自分にとって不利な批判的精神というものを完全に取り去ろうというのだから、これほど素朴であり唾棄すべき生き方は他にない。」のである。「一途に毒々しい」者たちに対する対処法を考えないとどこまでも食い尽くされることになるということである。彼らはそれこそ「何でもする」のである。今やその事例には事欠くまい。
2018 6/27
782.「記憶にない」と言う者たちとは
肝心なことが記憶にない者とは、心神喪失の禁治産者か、認知症か、あるいは記憶の集積体でもある人間を自ら放棄している者であろう。当然、信を置くに足りないどころか、場合によっては危険極まりない人間ということにもなる。このような者が理事長などのトップの役職についていること自体が大問題なのである。「記録」もない「記憶」もないで済む国とは一体何なのか?これで先進国?、トップがボケかまして説明責任をしているつもりになっている。それで通ると思っていること自体が恐ろしい。このような「心身喪失者」の類がたとえ「大きな問題」に取り組んだところで、いざとなれば今度はさらに手の込んだ「大ボケ」をかますだけである。実際、内閣などもすでにもう崩壊しているのである。その残滓が瓦解を繰り返し最悪の方向に進んでいるだけである。彼ら自身にも止めることはできないところまできている。「心神喪失」者に導かれて行き着く先は、自ずと知れたところでもあろう。同じ時代を生きたすべての者たちの責任はもはや回避できない。自分だけは避けられると思っている者はオメデタイだけである。それもやがて思い知らされることになろう。そこには遅すぎるか、早すぎるかの違いしかない。
2018 6/20
781.「賢く生きろ」の結果がこれである
「賢く生きろ」の結果がこれである。この場合の、「賢く生きろ」とは「ずる賢く生きろ」に最も近く、本当の意味での「賢さ」の意味は微塵もない。「寄らば大樹の陰」、「長い者には巻かれろ」式の生き方にも一理はあるが、是は是、非は非としなければ結局「大樹」は朽ち、長い者もやがて果てることになる。「政治的な話はするな」ということなども何も今に始まったことではないが、政治的に非があれば、それを非として認めても認めなくともそれは必ず自分に返ってくることで無関係ではありえないということである。非があればその結果は必ず現れるが、「思い込んでいる人々」には厳然たる事実は永遠に訪れないものである。そのような人々と心中したければ別であるが、そうでなければしっかりとした現実認識は持つ必要がある。政治の話を職場の仲間と話しづらいのであれば(それはよくわかる)話さなくてもよいのではないか、現在ではネットの活用も考えられる。ただ、「政治的な話はするな」という風潮は「何者か」によって「作り出されたもの」であるという認識は必要で、たとえそのような風潮はあっても「私はこう思う」というものがしっかりあればよいだけのことである。過度な「承認願望」は全く必要ない、むしろ危険でさえある。自らの明確な思考回路を守るためには現在どうしても政治的な問題を含めざるを得ないのは、それが思考回路を破綻させるウイルスのようなものだから防御しざるを得ないということである。
2018 6/17
780.日本人が「日本」に酔ってどうする?
日本人が「日本」に酔ってどうするのか?日本人はいちいち説明するまでもなく否応なく日本人なのである。あるようなないような、実際には何もない空疎な言葉に酔って「日本人の魂」などの類を「歌い上げて」みても、そこにあるのは安手な空中楼閣しか存在しない。それはあまりにも安易な観念である。放っておけばいつの間にか自己増殖する抒情の中で「情に棹差して」ばかりいてはやはり流されるだけなのである。そもそも「無いもの」に棹差しているのであるから死に急ぐための都合のいい口実をでっち上げているようなものである。いつまでもそのような「幻影」を求めている内は自らの未来を閉ざすことにもなるということである。
2018 6/9
現に、あらゆるところで閉ざしているではないか。それがわからないようでは自業自得の道しかあるまい。
779.国史改ざんの「現場」
現在、我々は、言って見れば国史改ざんの「現場」にいて、その経緯の一部始終を見ているのである。「国史」なるものが絶対的根拠に成り得ぬということの「標本」のようなものを生々しく見せつけられている歴史的「現場」のただ中にいるともいえる。それは、「国史」が時の権力によっていいように都合よく改ざんされ得ることを前提条件で読み解く必要があるということを意味する。この間の公文書の改ざんを見ても「起こった事」をいかに変質させていくかがよくわかるであろう。すなわち国の歴史を扱った「国史」に書かれていることをそのまま受け入れるだけでは「知性の欠如」と「信仰心」の証明にしかならないということである。作家などが「書き記されていること」を基に「想像力」を駆使して作り上げた作品の方が、すなわち見てきたような「嘘」の方がより真実、事実に近いということも充分にあり得るということである。そのようなことも考慮しつつ、国史に「書かれていること」のみを絶対視して、それ以外を「外れている」もの「真実」ではないとすることも単なる「信仰心」の領域でしかないということも押さえておく必要があろう。
2018 6/3