「ある日、その時」(47)11月1日ー

<掲載内容>

579.「大人」? 580.小沢+志位で「市民統一連合」581.表舞台は杉舞台か 582.朝三暮四の猿のごとく 583.近未来という「後退」584.「一億総活躍」?585.「英雄待望論」?586.「お座敷」をはねた幇間たち 587.「経済で結果を出す」??588.「派遣社員」の意識レベル

 

 

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588.「派遣社員」の意識レベル


 派遣社員の悲惨な実態はよく見聞するところであるが、彼らの意識調査もするべきであろう。現状を変え得る唯一の参政権である選挙権も行使せず、自分が低所得者であるにもかかわらずただ単に現状に振り回されて元凶となっているものを見抜けぬケースが多々あるからである。「派遣社員」のルポルタージュをするのであればその支持政党、選挙権の行使くらいは聞けるであろう。それも意識調査の一つである。みずからの首を絞めるような「選択」をしておいていくら現状を嘆いてみても何も始まらないのである。選挙権も行使ぜず、無関心な者たちを「ニヒルな」などという体裁のよい言葉でくくらない方がよい。それは単に「どうなってもよい」人々ということでしかないのである。無関心な人々が多ければ多いほど「妄想天狗茸」という毒キノコは蔓延るのである。

                              2015 12/23


587.「経済で結果を出す」??


 街角に張り出された「ボウ」政党の「コピー」であるが、何を今さら言っているのかと思われるピンボケコピーである。とうに結果は出ているであろう。これで何か言っている気になったり、したり顔で了解しているようではもう先はあるまい。このような言葉にわずかでも期待をかけている人々には残念ながら「明日」はない。それが論理的帰結というものである。自業自得なのである。

 「経済で結果を出す」とは、金で99%の者たちを封殺、圧するとも取れるから怖いところである。

 それにしても大方のメディアがここまで落ちるかというていたらくである。その内に「将軍様は、軽井沢で英気を養っていらしゃいました。」などと言い出しかねない有様である。

                                 2015 12/22、26、


586.「お座敷」をはねた幇間たち


 「お座敷」をはねた幇間たちが、今度はテレビで「熊さん八っあん」を槍玉に「言いたい放題」で金になる。何とも羨ましいようなばかばかしさである。巷でやれば単なる複雑音声チック(神経症の一種)と見なされても仕方あるまい。そこまでの見立てはできないにしても生理的に総スカンを食らうのがオチであろう。「毒舌」などと称するものも内実は「罵倒語」を不随意に発する「汚言症」の域をどこまで出ているのか大いに疑問で、さらにはその対象も常に「弱者」か、言ってもさしたる利害が生じないものに限られている。たまには腹をくくって強者、権力などに向かって言ってみろと言いたくなるが、「お座敷」で虎の衣を借りての「言いたい放題」、周りの者も触らぬ神に祟りなしとばかりの距離の置き様に本人はますますその気になるという按配である。要するに「弱者」をダシにした「目くらまし」、「かわし」の類をいつまでも面白がっていても埒は明かないということである。そろそろ軽いフットワークで直に攻めないとにじり潰されるだけであろう。

 「ヘイトスピーチ」系、あれも「汚言症」という神経症の一種で聞くに堪え得るものではない。要するに、病める領域に「行っちゃている」人々とまともに話をすることはできないのである。彼らの真の話相手はまず精神科医であろう。

 

                                  2015 12/14


585.「英雄待望論」?


 「英雄待望」などという発想そのものが、怠惰で卑屈であることの証左である。なぜ自分ができることを通して現状から半歩でも「前に」進もうとしないのか?それについてのいかなる弁明も講釈も理屈も怯懦の証にしかならないのが現状である。さらに言えば「英雄待望」などとは卑屈な臆病者の発想ということになる。

 世論調査の選択肢の一つである「適当な人がいなから」というのも言ってみれば「英雄待望」の変種で、多くの人にとっては適当な人を「作り」「育てる」、あるいは自らそれに近づこうという発想は無縁なようである。これもそのように思い込まされているのである。この手の安易な選択肢設定も計算の内ではあろうが、このようなわかりやすい言語操作にはまってその気になっているのでは「敵」の思う壺である。自分の生存にかかわることをそんなに軽々しく他人に委ねてしまっていいものなのか、もう少し各自が自分で考え、調べる必要があろう。どちらにしても「関係ねーや」では済まないのである。それは緩慢なる自死の道である。

                                   2015 12/6


584.「一億総活躍」?


 嘘は大きければ大きいほど大衆は付いてくるものだ、というようなことをやはりヒットラーも言っている。しかし、この御仁の嘘は表も裏もないすべてが嘘で、本人もどこまで嘘かさえわからなくなっているのではないかとさえ思われる。しかし、「複合体」の化身とはこんなものであろう。要するに、「複合体」の利害しか眼中にないのである。だから、そのためには歯が浮いて出てしまうような言葉遣いも平然と行えるのである。「複合体」との裏取引で己を自己原因化、すなわち自らを神化していまった男の反民主主義的「民主政治」というのがその実態であろう。したがって「一億総活躍」とは「一億総奴隷化」ということになる。それもいざとなれば責任も取れない「最高責任者」のしもべとなることを強いているのである。

                               2015 11/29


583.近未来という「後退」


 近未来を扱った映画を観ていると、具象物だけは奇をてらったもののオンパレードであるが「内容」(ストーリー展開、意識構造など)はむしろ「後退」、退化しているとしか思えないものばかりである。近未来を取り上げるのであればもう少し根底に確とした現実直視の視点がなければならないがそれが希薄なのである。だから面白くないのである。設定自体が現実となる可能性もない、イメージの飛躍も閉ざされた現実回避の単なるアクション妄想近未来ではやはり「後退」としか言いようがない。あたかも近未来は現在より「進んでいる」ような見せかけただけで、やっていることはどれも「水戸黄門」に奇妙奇天烈な衣装を着せて宇宙空間に放り投げたような「内容」である。現実の方も、変わったのは見かけだけで「内容」は紀元前より何ら積み重ねられることもなく、ただ「後退」し続けているというのが実情のようであるから何とも致し方ない。悪くすると「詐欺技術」にもなる「小手先技術」、それを現実の実相のように「思い込んでいる」人々も多いようだが、それだけではもはや「立ち行かぬ」時が来ている。「現実論」を盾に取る多くの見解も現実の実相が見えていることはまれで多くは思い込まされてるか「洗脳」されているのが常態である。

 「近未来」を扱った作品群に興味を持たないのは、「近未来」ということ自体が私には必要ないからである。それは、現状の自分自身の在り様を通して「現実」を精査、検証すれば自ずと見えて来るものでもある。

                                      2015 11/21


582.朝三暮四の猿のごとく


 論理はあらゆることの根拠にもなる最重要事項であるが、論理では「人」は動かない。流されることが大好きな人々は「情」に訴えられれば「情」に流され、中には情に棹差す者まで出て来る始末である。それは周辺を見れば一目瞭然である。そこに至るまでの論理的経緯は欠落したまま現前の「具体的」なもの(?)にとらわれて感情を増幅させる。結局、仕掛けた者の手中にまんまとはまることになるのである。

 「美しい日本」という幻影のマトリックスから始まったこのレトリック政権は国の中枢規範をその増殖肥大化した「レトリック」で犯し、諸外国では低俗な成金よろしく税金を湯水のごとく使う。身売りしたマスメディアは頻繁に飛行機のタラップを上がる彼の姿を映し出し、さも海外で何かやっているように見せる。このようなことも功を奏して、「彼も日本のためによくやっているではないか!」とくる。現象面の感覚的認知だけで「やっている」内容の論理的検証など皆無である。これでは放置された隙間に毒キノコ、毒ニンジンがはびこってしまっても何の危機感もないのは当然である。食ってみなければわからないでは歴史を持たぬ蛮民以下で、自殺行為である。この毒々しい「色価」が他を貧相に見せるほど高くなってきていることに対して歯止めを掛けられるのは唯一論理的思考だけである。論理的思考がないから、朝三暮四の猿のごとくになっているのに気づかないのである。

 このレトリック政権に対して批判することは「山ほどある」と言い切る識者がまだいることを思うと朝三暮四というたわいのないトリックから猿たちもいつか目覚める日もあるかのと思われる。                                

                                    2015 11/14


581.表舞台は杉舞台か


 表舞台は檜舞台ではなく、杉舞台と見える。腕を試すどころか恥の競い合いである。いつから日本人はこれほど恥を知らなくなってしまったのかと思っている。「恥知らず」、「厚顔無恥」という言葉すらその様を捉え切れないほどである。恥は上塗りを重ねるしかないようで、上塗りを重ねる内に恥は表皮となって新陳代謝よろしく内部から作り出されてくるものらしい。その時分にはもう恥は恥ではなくなって自らの表皮のごとくになっているのである。恐ろしいものであるが、それで済むはずもない。「一期は夢よ、ただ狂え」とばかりに恥辱の上に胡坐をかき涼しげに吸い上げた札びらを切る。これがヤクザ、周辺領域の者たちなら救いようのない愚者として扱い方も考えられるが、国の中心部分に巣くう者たちすべてがこれでは、ここまで堕ちるものかと「人間」の危うさを再確認している。これは先進国家にも文化国家にもなり得ぬことの証左にもなる。自己正当化ばかりしている発展性のない人物同様、三文小説にも劣る歴史改ざんでしかない歴史修正主義者の文書などを基に世界に発信するなどは愚の骨頂であろう。どこの国の誰もが引いてしまうことを得意げにやっているのだからどうしようもない。やればやるほど、動けば動くほど、逆効果しかもたらさないのである。

 恥を知らないのが彼らの身上、一方では日本人をターゲットに大きなテロが起きることを待っているのではないかとさえ思える。要するに、使い古されたマッチポンプである。ただし、今度はポンプにオイルを混ぜている可能性もある。

                                 2015 11/11


580.小沢+志位で「市民統一連合」


 もはや何だかんだと言っている場合ではない。明日のわが身も定かではない状況である。小沢も志位も「ライフ」、「生活」を重視する点では同じ、スタンスが同一なら主義主張はまず括弧に入れて立ち向かわなければ押し切られる可能性は大きい。相手は何でもありの、闇の中の魑魅魍魎さえ提灯をかざす手合いである。「市民統一連合」大いに結構。今や「共産党」は「共産党」などという名称にこだわっている場合でもなく、その必要もない。いくら内容的に妥当性があってとしても「共産党」という名称自体がマイナス面しかもたらさないのが現状でもある。実際はどこに共産主義国があるのかというのが実情なのであるが、悪しき全体主義的イメージだけは出来上がってしまっているのである。そのような負の名称をわざわざ背負う必要がどこにあるのかということである。名称だけではなく既成政党としてあるというだけで現実的には内容的にシフトしざるを得ないものがある。その時期はとうに来ている。この際、「共産党」という名称も変えてみたらどうかと思っている。政治という土俵に上がったら「効果」は必須事項である。「自由」も「民主」も全く縁のない輩がこの美名に巣くっているのがいい例である。名称だけでどれほどカモフラージュされているか検証して見てはどうか。これも「効果」の一つなのである。厳密に言えば、日本の共産党はすでに共産主義思想からは離れたところにある。そうならざるを得ない歴史的必然性もそこにはあった。今、後期資本主義がもたらす弊害を徹底的に追及する政党としての共産党の役割は重要性を帯びてきているのである。共産主義国など理論上の問題で、現実的にはそのような国の建設は不可能といってもよいだろう。少なくとも現状ではあり得ない。にもかかわらずたとえ共産党がまともなことを言っていても、北朝鮮、中国、ロシアに関連付けて主張している内容自体を変質させてしまう傾向は今までにも多く見られた。要するに、米中露と「程よく」それこそいい意味で「いい加減」にお付き合いすればいいだけの話であろう。それが「大人」のやることである。質のよくない餓鬼の泥んこ遊びのような真似をいつまで続ける気なのかと思っている。小沢と志位のような、いい意味で「大人」と言える人々が合体すればそのような状況からの脱却も可能であろう。しかし、それしか考えられないというのが何とも情けない話なのである。

                                 2015 11/4

 


579.「大人」?


  昨今、やたらと目に入る「大人の〇〇」という「コピー」、一体何を意図しているのかと思われる。そもそも「大人」と言い得る人々がどの程度いるのかさえ怪しいのが今の日本の現状でもあろう。そんな時に「大人」という語の頻出は、「大人」がいないから出て来るとも言えるが、「大人の世界」が確とあるように思わせるようにも見える。少なくとも今までは「大人」とはよくも悪くも「いい加減」の領域を「心得た」人々という程度の意味ではなかったかと察することは可能ではあったが、今となっては悪い意味の「いい加減さ」ばかりが際立ってきている。そんな時に、さも何かあり気に「大人の〇〇」とそこかしこでやるものだから、何とも気持ちの悪いものを感じてしまうのである。言ってみれば、「大人」とはどんな人なのかという問いを発したくなるような人物ばかりで、「大人」の像が鮮明に浮かび上がることはめったにないといってもよいだろう。要するに、現在の最大公約数的な「大人像」などに何の説得力もないのである。むしろ、淫靡なものを隠微なものにしている様相しか見えてこない。今更出来合いの「大人の世界」などというものに振り返る者がいるのか。「大人」などという空疎なコンセプトでもはや括れるものはあるまい。たとえ「大人」が酸いも甘いも噛分けた人というほどの意味だとしても、「それがどうした」ということにしかならないのが現状である。

                                     2015 11/2


 

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