「ある日、その時」(32) 2014年3月22日ー

<掲載内容>

395.おかしな国のおかしな国民  396.TAMORI ? 397.列を作ることが好きな人々よ!398.大寒桜から染井吉野へ 399.「伝説の番組復活」?400.しけた世の変な人々 401.「東京人」?402.?!??∞=  <番外メモ20140508>「本屋大賞」?

                                                (転載・複製厳禁)



<番外メモ20140508> 「本屋大賞」?

 分かり切ったことを言い連ねれば、本屋とは本を売る店であり、「みんな」とは大衆のことである。「本屋大賞」とは今一番売れている、「みんな」が買っているものということで「一級品」などという意味合いではない。「みんなの〇〇」などというのも実質的には「大衆の〇〇」ということで必ずしも迎合すべき内容とは限らず、いかがわしい内容も多々ある。「本屋大賞」とは言い換えれば「大衆大賞」といえなくもないが、「本屋の」、「みんなの」などに共通している「部分」が自己判断のできない、あるいは避けることに長けた右顧左眄の恰好の「糧」であると同時にその製造過程そのものということである。さらに言えば、「本屋」と言ってももさまざま、「みんな」もいろいろなのであるが、それらを括る「総元締め」の「判断」次第でその色具合、イメージも変わってくる。いつの間にか本屋も一色、みんなも一色ともなり得るのがいつものパターンともいえるが多くはグラデーションのかかった一色ですぐにそれとはわかりにくくなっている。そもそも、その一色が好きな色なら別であるが、好きでもない色に敢えて合わせる必要もあるまい。これからは否応なく読み手、買い手の「質」そのものが問われる時代となる。なぜなら「曖昧」、「蒙昧」であることは近未来さえ自らの手で閉ざすことになるからである。


402.?!??∞=


 最近は「?!??∞」で息つく暇もないというと少々大げさかもしれぬが、すべてが今まで以上に「?∞」で、留まるところを知らないというのが実情でもある。そして、同時に容赦なく「行為」を迫られる。先送りが効かない上に疑問点は膨れ上がっているのである。実学的にも理論的にも「事」はすでに見えているともいえるが、その視座自体も実は危うい。メディアに溢れかえっているあたかも「事態を収める」、「収めた」かのような「講釈」もレトリックの範疇を一歩も出ることなく瞬く間に反り返り、耐用期限切れの劣化も甚だしい言葉の置き換えだけが奇妙な姿を露呈する。「?∞」はかなりのエネルギーを必要とする。自分としてはいつの間にか病を得て不本意に生きながらえるつもりもなく、できれば自死も避けたい。もはや夢だ、希望だなどというお題目で操られることもないが、不思議なもので内奥の底知れぬエネルギーは以前にもまして強くなっている。それが私を生かしているともいえる。最近はイリュージョンの残滓の形骸を街中で目の当たりにする機会も多いが、哀れというより脳細胞の変調の一様相に自らを迷い込ませているとしか思えない時がある。

                                                 2014 5/3


401.「東京人」?


 「東京人」などと言っても、数年前、十数年前に地方から出てきた、それも少なからず欲望をたぎらせて登ってきた者たちというのがほとんどで、地方出身者の「ごった煮」というのが東京の実態でもあろう。時折、「東京人」に対する印象などとまことしやかに行われる「アンケート調査」の類にはただあきれるばかりであるが、どちらにしても何の意味もなく勝手なイルージョンを作り上げているだけである。「あなたの接したのは数年前に起業家を目指して〇〇県大字小字から出てきた者です。それを『東京人』というのですか?」と、つい意地悪く聞きたくなってしまうのである。私は、服装、話し方、ものの捉え方などで「東京人」かどうか、北出身か南出身かくらいまでは何とかわかる。最近はあまり長く人と話すことがないので、書かれたものか、服装で判断するしかないが、私にとっては「東京人」とは少なくとも生まれた時から東京にいるか、申し分ないところでは三代以上は東京にいた者という基本枠がある。身なりはシティーボーイ、シティーガール、中身は「粘液質」な、あるかないか不明な「ゲマインシャフト」への郷愁で絡め取られているのではどこかがズレてくるのは当然である。東京の地方出身者同士のイルージョンの「ぶつかり合い」の中で、それを「東京人は冷たい」などと県人会のゲマインシャフト復活のよすがとされてはたまったものではない。実のところ、ほんとうの「東京人」といえる者たちに会っているかどうかは不明なのである。それにしても「東京人」、「「東京っ子」などの内容はフランスでパリジャンなどと称されるような全人格的に「都会的センス」を持ち合わせているようなものともまた異質である。一般的に遣われている「東京人」とは何か取って付けたような、実に「田舎臭い」というより「田舎」そのものなのである。

 参考までに、私の20代前半は、ゴダールの映画が感覚的に素直に自分の中に入って来るものを「都会派」として認め、何ともわからない、馴染めない、感覚的に受け付けない者たちを「田舎者」と簡単明瞭に振り分けていたが、その正答率はかなりのものであった。中にはポーズで理解を示す者もいたが行為がそれを裏切っていた。断っておくが「田舎者」に対して何ら差別意識はなかった。むしろ地方の「底力」に敬意さえ持っていたくらいである。

                                                     2014 4/20


400.しけた世の変な人々


 毎日のように起こる鉄道の人身事故であるが、それもすでに日常化してしまっている。そして電車の中ではおもちゃを与えられたサルのように人々は「文明の利器」に打ち興じている。しかし、「打ち興じている」わりには顔は引きつっている。それはむしろ「文明の利器」にもてあそばれていると言った方が適切かもしれない。中には必要な情報収集に余念のない者もいるが、さすがに車内では「三大新聞」などに目を通している者はほとんどいなくなった。混み合う電車で「This is my every day, ひどいものだ・・・」と降りる知人に呟いた外国人は一人になると付箋のついた分厚い本を取り出した。久しぶりに見る光景である。私自身も、自国民に対するこれ程の距離感を感じたことは今までになかったことかもしれない。危なくて見ていられないからつい身をそらすのである。危険が恒常化すれば身は常にそらしたままの状態となる。それが意識化されていれば自ずと距離感が生じ、増大する。何の不思議もない。「意識化されていなければどうなるのか?」、精神はそれとは知らず迷走し、肉体が「変形」しているのも気が付かないまま、やがて医療産業もしくは葬儀産業に囲い込まれ、ついにはそれらに貢献することとなる。「意識化されていない」以上彼らは決して現実の「根幹部分」の問題に向き合うこともない。すなわち、自らを騙しつつ「他者」からも騙されっぱなしの人生を送ることになるのである。愚かさも ここに極まれり 賢しら心とでも言いたくなる。無知は罪悪、そして明解さを欠くことは方向性を持たぬが故に迷走と「空ぶかし」を余儀なくさせられ、結果的には去勢された隷属状態に自らを追い込む。

                                                               2014 4/11


399.「伝説の番組復活」?


 「伝説の番組復活」とは、要するにもう出尽くして何もありませんと宣言しているようなものである。今まで一体何をしてきたのかということでもある。「伝説の番組」などというものがもし実際にあったとしてもやらない方がお互いのためである。「名舞台」などといわれているものの再演もそうであるが、そのままやれば時代的齟齬(そご)と俳優自体の「変質」が作品を当時のものとは「別物」にして、決して前作を凌駕することはない。作り手がそれ以上の「何か」をもっていない限り、なぞっただけでは失敗は必至である。「伝説」かどうかは別としても、それほどのものであるなら尚更であろう。現状の自分が見えている者であれば避けるが、愚かであればその気になる。多くは「復活」自体があり得ないので見なくてもよい実態がさらに鮮明に見えてくるだけである。もちろん、見える者だけに限られるが。

                                               2014 4/10


398.大寒桜から染井吉野へ


 今年ほど桜を満喫したことは今までになかった。花見をしようと思ったわけではない。そんな暇はない。たまたま出かけたところがすべて見事な桜の並木道があるところでそれも3月中旬から始まった大寒桜の満開から4月5日頃の染井吉野の満開まで約2週間ほぼ毎日のように桜の並木道を歩き、思わず足を止め体全体で桜の花の息吹を感じ取ることができた。これこそまさに「有り難き」ことでもある。開花寸前から満開へ、そして落花と花の時々の様相を充分に味わうことができた。そんな稀有な時を得たことを感謝している。もう染井吉野は葉桜になりつつある。もうこんな機会は2度とないだろう。すべて一期一会である。

                                                2014 4/8


397.列を作ることが好きな人々よ!


 何かというと「買いだめ」に走り、そして、長蛇の列を作る。その顔には「安堵」の表情さえ現れている。我先に手に入れようとする険しさはあっても怒りの表情はまったくない。なぜこんなことをしなければならないのかということは問題にもしない。やがて買いだめたものは底を突くのは分かり切ったことであるが、それで急場しのぎができれば何とかなると思っているのか、ただ、あきれるばかりである。これは「したたかに生きる」ことなどとはかけ離れている。そこにあるのは、「忍耐」などというコンセプトとは異質のただ去勢された卑屈な愚かさだけである。それは最悪のパターンともいえる。私はどのようなことでも並ばされ「列を作る」ことが嫌いなので「不当な処置」で追い詰められ日々の糧を得られなければ、抗議行動の方を選ぶであろう。

                                              2014 4/5


396.TAMORI ?


 これは批判などというレベルの話ではない単なる率直な感想に過ぎないが、「タモリ」はまだやっていたのかという感じしかない。「さんま」などもイワシと区別がつかなくなって久しい。概して煮ても焼いても食えないものが多いが、「たけし」の「毒舌」、「切り込み」なども底が割れてしまっていて「道化」すらその逃げ口上にしか見えず痛々しいばかりである。その他のお笑い系芸人については言うに及ばず、ただ存在自体がうっとうしいだけとしか言いようがない。それは、時代というものがそうさせているとも言えるが、もはや彼らの「在り方」そのものがまったく「無意味なもの」と言うほどの意味すらもなく、むしろ百害あって一利もなしになってきているからでもあろう。笑う対象を見ればその人間の質がよくわかるともいうが、今更「八っさん、熊さん」の類をネタに笑っている場合かということでもある。言ってみれば「八っさん、熊さん」などは緩慢なる自殺対象者でもある。チャップリンは同時代の現役のヒットラーを笑いの対象としたが、こうした肝心な部分は常に抜け落ち、「お茶の間」などという実態不明のコンセプトで当たり障りのない皮相的な「切り込み」、物まねだけがバッコするように仕立て上げられているのが実情でもある。本来の「毒舌」、「切り込み」などもイマジネーション豊かに自在に時の様相を「切る」ことにその役割を辛うじて見い出せるものであるが、実際は妙に媚びた憎まれ口程度のものでしかない。「タモリ」にしてもアナーキーな猥雑なエネルギーを持っていたのは赤塚不二夫などの共感を得た初期のライブ活動だけである。それ以後は世評とは逆に下降の一途である。そして、最後にこともあろうに今後あらゆる問題の起点ともなり得る時の「権力者」に長寿番組であることを褒められるなどは最悪な「終わり方」であったとも言える。これも「継続」が堕落の門戸と隣り合わせという標本のようなものであるが、もともとその程度のモチベーションと思えばそれはそれで納得もできる。猥雑なエネルギーのラジカルな面もすぐに剥ぎ落され小賢しい小手先だけの「垢抜けした」濡れ手に粟の稼ぎに終始するなどはあまりにもお決まりのコースと言ってしまえばそれまでなのであるが、それ以外に何もしていない以上そう言われても仕方あるまい。それは自己の「起点」を忘れた者の宿命とも言える。その点については「たけし」は別な面、ある内的必然性を持っている。そのことについてはまた長くなるのでここでは避ける。大衆に寄り添い、大衆の代弁者のような顔をしている者の多くが実は大衆とはまったくかけ離れた大衆蔑視の生活をしているというのは日本でもよく見られる現状である。因みに、比較するのも憚られるところではあるが、アルパチーノ(俳優)はプール付の豪邸に高級車何台も持ちながらスラム街を彷徨するのが常であったと聞く。俗に言う「ハングリーな気持ちを忘れないため」でもあるが、それだけを見てもやはり生き方の迫力について根本的な差は歴然としている。もっとも、ニセモノ文化の中で自分自身も含めニセモノとして捉えその中で泳ぎ切ることのみを目指しているのなら今更何をか言わんやであるが、それは結局ニセモノの大量生産にさらに拍車をかけることになるので「一利」どころかむしろ「害」になることの方が多いということである。要するに、どう体裁を取っても愚民化政策の一翼を担っているのである。

 マスメディアに頻繁に登場する者たちの中で「これは本もの」と言える人物が何人いる?まさか彼らがすべて「本もの」であると思っているわけではないだろう。

 初期の「タモリ」にしても、「たけし」にしてもアナーキーな自在な「感性」を少なからず持っていた。それが大衆の「感覚」に心地よくストレートに入り込んだのである。しかし、その「感性」も明確な方向性を持つ「知性」の補完性が働かない限りすぐに衰微し枯渇する。知性を併せ持つ「感性」のみが大衆の「感覚」に入り込み、継続的に揺さぶりをかけることができる唯一のものかもしれない。やはり「感覚」だけでは迷走を余儀なくされることになる。現に、「たけし」は、「オウム真理教」と「原発」の件については明らかに迷走している。知性に裏打ちされていない単なる感覚による快刀乱麻の致命的欠陥ともいえるが、その一方では何の反応もせず、それが賢い方法とばかりに口にチャックの者が皮肉にも時の危うい権力者に「抱きつかれ」一矢も報いることができなかったということはその者のすなわち「TAMORI」の現在の成り立ち様をつぶさに物語っているとも言えるだろう。

                           2014年 3月 「忙」日の走り書きよりーA君の質問に対してー


395.おかしな国のおかしな国民


 東京で代々居を構えた家に育ち、長く暮らした私ではあるが、つくづくおかしな国のおかしな国民であると思われる時がよくある。どうしてそのような思いに至るのか、簡潔に言えば言えなくもないが、それは昨日今日始まったことではないので際限もなくなりそうである。

 先日、ある超高層ビルの屋上から東京の360度全景を隈なく長時間眺める機会を得たが、やはり「焼け跡」から場当たり的にその場しのぎに何の長期的展望もないまま作られた都市であると思った。それは決して「美しい」などとはいえる代物ではなく、むしろ「見苦しい」と言った方が適切かもしれない。すぐに目に入る東京タワーの配色にしても赤と白でビル建設に使われている巨大なクレーンと同じ色である。窓から見えるこのような景色を四六時中見ていて何を感じるのか、私にはこのようなところに住みたいと思う気持ちがまったく解せない。おそらく住人は実際にはその居住空間にいない時の方が多いのであろう。この雑然とした景観の中に何か猥雑なエネルギーでも秘めているのならまだしも今では末期の吐息程度の「熱量」しか感じ取れないのだからさらに悪い。それぞれがある範囲で小さく収まってはいるものの全体としてはアンバランスで、どの視点から見ても美的共感はほとんど得られない。歴史を感じさせるような家屋もいつの間にか取り壊され、その跡地には折り紙を糊で固めたような家屋がすぐに数件建ち並ぶ。その一方では高層ビルが雨後の竹の子のようにところ構わず増え続けているのである。

 すべてはこの都市の景観が示す通りである。原発再稼働についても然り、目先の経済事情ばかりを優先させ(優先順位の基準、根拠も実は不明)後先はまったく考えられていない。その場しのぎとはいえ事故当事国が隙を見ては原発を再稼働させようというのであるから海外から見ればまったく不可解、奇異でしかなく、とてもまともであるとは思えないのであろう。自分の姿が自己認識できないということは怖いものである。現状の己のあるがままの姿を見ようともせず、いわんや強引に「敵」をでっち上げてアイデンティティーを作り上げるなどは無能無策な者がする常套手段。そこまで堕ちてもしたり顔でいられるのはどこかタガが外れているとしか思えないのである。だから、何かおかしく思えるのかもしれない。敢えて自らの将来を閉ざすことにしかならないことをしていながら「夢」や「希望」を唱える。やはり、どこかおかしいのである。

                                                     2014 3/22


j 

アーカイブ
TOP