<掲載>
317. オリンピックパレードに50万人? 318. イエロージャーナリズム 319. 「近頃は上から下まで乱れていますからね」 320. 武力紛争とは常に生き地獄と知るべし ートリガーの感触は限りなく軽いー 321. 東は石の原、西は橋の下にていと怪しげなり /comme l’art de la fugye・・・/ 322. あな いみじ /La piéce est la même sous d’autres maqsques/ 323. 絶滅危惧種に人類も含まれていたとは 324. 御多分に洩れず「あとは野となれ山となれ」 325. 恋する最強の馬オルフェーブル 326. 悪人跋扈 /La situation politique・・・
(転載・複製厳禁)
La situation politique est si grave que’on ne peut plus y porter remède.
Les escrocs gouvernent un pay. Que puis- je dire? 2012 10/13
326. 悪人跋扈
上から下までとにかく悪人跋扈の様相を呈している。最近では誠実な人間などに会うことが稀になってしまった。「善人」などは馬鹿扱いというような風潮は今に始まったことではないがそれにしてもここまで堕ちるかという感は否めない。困ったことにそれが当然で、むしろ新たな実践的「正義」さえあるかのようなもの言いをする者が後を絶たないということにも呆れ返る。要するに、生き残るためには「悪知恵」を働かせるなどとはもはや陳腐過ぎて先が見え透いているのである。さらには「生き残った者が勝ち」だという愚かしい勝手な思い込みを恥ずかしげもなく開陳するに至っては今更何をか言わんやなのである。彼らにとっては戦争で死んで行った者達はすべて敗者なのであろう。そう言っているのである。徒に人生をだらだら生き延びるのはもはや人間の形骸に過ぎない。それを「勝ちだ」の「負けだ」のとカルトの教祖のように偉そうに判断することが自体が愚にも付かない思い込みなのである。生き延びても生きる屍(広義)では仕方あるまい、その質は当然問われて然るべきなのである。それは一般的に言われる「クオリティ オブ ライフ」などという生易しいものではない。
身近に起きる事件を見ても未解決をいいことに悪人跋扈は際限もない。陳列棚から任意に取り上げても「島根女子大生遺棄事件」、もう3年も経つが捜査当局は明確な証拠がないと釈明しつつ、「みなさん知りませんか、情報を待っています」のいつものパターンである。「世田谷一家殺害事件」にしても周知のように初動捜査のミスを指摘されて12年が経過している。この事件などは犯人の手掛かりとなる証拠、遺留品などこれ以上犯人も残しようがないだろうと思われる程ありながらやはり「みなさん知りませんか、情報を待っています」である。捕まえてくださいと言わんばかりの犯人でさえこの調子である。証拠を残しても残さなくてもこの調子ではではいつまで経っても犯人逮捕などには至るまい。やった者勝ちの悪人跋扈は平然とまかり通っているのである。陳列棚にも乗らないこの種の事件などは枚挙に暇がない。
絶滅危惧種と言ってもいい「善人」と、悪人や小悪党達の跋扈、この異常なアンバランス、もはや悪人、小悪党の戯言、開き直りなど聞いている時間もないのであるが、相も変わらず盗人猛々しい者が三分の理を説き、「善人」は沈黙するか秘かに「つぶやく」。今やその沈黙、「つぶやく」内容の可否すら厳しく問わざるを得まい。たとえ「生き残らなくても」人生そのものの質を「問う者」がいなくなってしまってはやはり「人間」は死んだとしか言いようがなくなるのである。当面の問題としては「人間であること」の「証明」を各自が各瞬間ごとにどこまでするかにすべてはかかっている。それは、現実的にはサル目ヒト科ヒト属だけが存在しているかのごとく、「人間」としての概念そのものが瓦解しその規定は不可能となり,「人間」の「本道」などというものが消失してしまっているからである。そのような状況を踏まえずただしかつめらしく「人間」の「本道」、「間道」などを説くものはすべて検証を必要とする。そして、その多くは偽物、虚偽の類である。なぜ偽物、虚偽が悪いのか、それは結果的にはすべての可能性を遮断することになるからである。すなわち未来を自ら閉ざすことになるのである。
「人間」の浅はかな愚かしい言動のすべてを封殺できるのはやはり現前の厳然たる自然の地球規模の猛威しかないようだ。「人間一般」を霊長類などとはをこがましく、むしろ脳が局部肥大化した懲りないサル目ヒト科ヒト属と言った方が適切なのかもしれない。
2012 10/13
325. 恋する最強の馬オルフェーブル 「 Après vous」
人の思惑通りには走らぬところもさすがである。凱旋門賞のオルフェーブルはかなりのハンディを背負わされたにも拘わらず問題なく優勝馬の走りであった。伏兵がいたからでも調子が悪かった訳でも騎手のせいでもない。多少調教師の判断ミスは否めないがそれでもそれが直接の原因ではない。要するに、女性の国フランスでソレミアという「女」に勝ちを譲っただけである。男同士の戦いであったら間違いなくオルフェーブルは優勝していたはずである。オグリキャップもジャパンカップで心を寄せた葦毛のオーストラリア「女」フォーリックスに優勝を譲った。共に騎士の称号を与えたいくらいの馬である。自分の最期は人間以上によく知っている、最期は華麗に燃え尽きるだろう。オグリキャップもそうであった。このレベルの馬を見ているとつくづく人間以上に教えられることが多い。勘違いしてはいけない、人間が馬に食べさせてもらっているのである。決してその逆ではあり得ない。人間よ、驕ることなかれ!
Après vous (どうぞお先に),それは紳士の淑女に対するエチケットでもあり、余裕の心遣いである。
2012 10/9
324. 御多分に洩れず「あとは野となれ山となれ」
「あとは野となれ山となれ」、これは自身の生存が成り立てばあとはどうなっても知ったことではないというお馴染みの資本主義的権力機構の根本的な「生命原理」でもある。さらに権力機構が末期症状を呈してくればそれは露骨に現れてくる。今までの世の流れもイヤーゴ的人物をむしろどこかで受け入れ増長させる方向で突き進んできた。そして、さらなる奸計の策士が登場するかと思いきや狂気を帯びた幼稚さだけのサイコパスとモノマニア的集団のオンパレードであった。この集団は各自の根幹的思考回路が一定せず、全体を見据えたプログラムが成立し得ないことである。したがって、具体的な帳尻合わせに長けた官僚組織に頼らざるを得なくなり、「過不足」が出る度に方向転換を繰り返し、やがてその信も失墜して官僚機構のみが機能していることになる。この段階ではもはや手も付けられず「あとは野となれ山となれ」である。その結果、自己解体が現実となるその寸前までできるだけ手を変え品を変え続けること自体が目的となり、それ以外には他にやりようもなく、すべては「やっている振り」ということになる。この段階に至った彼らの本音は飽くまでも「わがあとに洪水きたれ」である。当然、彼らが口にする「将来」などはあり得ないことでしかなく、妄想に現実味を帯びさせることだけは長けたすなわちサイコパスの言動ということになる。そこではすべての国民は彼らの「都合」と「体裁」の「出し」でしかない。
人間事象には残念ながら謀がつきものである。況や権力の集中したところではなおさらである。「謀略史観」などという造語があるらしいが、歴史事象についての謀略などは常に検証されてしかるべき問題だということに過ぎず、「これは謀略史観だ」などというもっともらしい括り方に一体どれほどの意味があるのか、このコンセプト自体が空疎なのである。これは日本でしか通用しない造語で、歴史解釈そのものを平板化させる要因ともなりかねない。歴史事象の謀略に焦点を合わせた歴史解釈と言えばまだわかるが「史観」などという言葉を遣うから混乱を生じさせるのである。「史観」(geschichtsauffassung)とは歴史に対する明確な世界観を必要とする。「謀略」だけで体系的にその世界観を構築できるとは到底思えない。「謀略」とは関係性の中から染み出て常に変形が加えられる表層概念で本質的な概念にはなり得ないかあらである。多くはこの造語を使う側の方に問題がある。
※イヤーゴ:シェイクスピアの「オセロ」に出てくる旗手で奸計の策士。
サイコパス:自己中心的で慢性的に嘘をつき、罪悪感の欠如などが見られる人格障害。
モノマニア:偏執狂。
2012 10/6
323. 絶滅危惧種に人類も含まれていたとは
人類の英知などというものはもはや画餅の典型でしかなくなってしまったような現状を見ていると、人類そのものが絶滅危惧種ではないかと思われてくる。そして、もし人類に英知が存在していたとしてもその絶滅時期を多少なりとも遅らせることくらいではなかろうかと思っている。
実際に明日をもわからないのが人間の実情であってみれば放射能半減期千年万年などという時間の単位は人間にとって及びもつかない範疇外のことである。人間の手に負えないものを野に放ったのも人間自身であるが、そのことによって滅びるというよりもそのようなことをあたかも「善」として為す人間そのものよって滅ぼされると言った方がより正確かもしれない。今尚、滅亡への歩みは止まることを知らない。人類滅亡の一過程として、日本は人類史上稀有な反面教師として浮上してきている。英知なき復興などはさらに滅亡時期を早めこそすれ決して復活・再生することはない。一つの世界観を持ち得た者の多くが指摘する通り、血の歴史が語りかけることを無視して突き進んでいること自体が滅びの道そのものなのである。
地球の最期が炎に包まれたものか凍結したものか知る由もないが、いずれにしても地球にも終わりが来ることは確実なことである。何事においてもそうであるが終極は何の前触れもなく突然やってくるものである。言い方を変えれば、「前触れ」は常に現れているが人間にはまだそのすべてをキャッチできる能力がないというだけのこととも言える。「何万年に一度」などという人間の割り出した試算値、算定基準なども明日起こっても不思議ではないということ以上の意味は持たない。したがって実際には何の根拠にもなり得ないのである。そのことについては不幸にも日本においてすでに実証済みのこととなった。
「ああ壊れていく、壊れちゃった」ではもはや済まされないところまできている。人類が絶滅危惧種たる所以は己の利する行為をあたかも当然の権利のように執拗に繰り返す点であるという極当たり前のことからきているのである。偏執狂(モノマニア)とは人類の一般的特性でホモサピエンスのサピエンス(叡智)の流れは飽くまで一部でしかなく、むしろホモモノマニアと言った方適切かとも思われる。何億ものモノマニアの営為の集積とサピエンスとは一線を画されるものである。
2012 10/1
La piéce est la même sous d’autres masques. ーE ・Bー
Au fond de tout patriotism il y a la guerre ; voilà pourquoi je ne suis point patriote. ーRー
Vous avez raison ーM・Hー
2012 9/30
322. あな いみじ
石破る 思いばかりの 心なき身 身の程知らずとは さもありぬべし
安達ケ原 親子二代で 石の原
石の原 親子共々 鳥辺山
傀儡師 乱れて故意の 仕舞うた芝居 野太鼓に合わせる所作もあるまじき
最近はあまりにもばかばかしくて世の流れについていちいち書く気にもならないが、いつとはなしに去勢を嫌う自由な「思い」は野辺の田の澱みを越え飛び回っている。そこから具体的に見えることは、現状について何をどういってみても本質的な骨子は今もって何も変わっていないということは敢えて言うまでもないことではあるが、今、現実的対応として最も危険なことは木を見て森を見ずという姿勢ではないかということである。まず危機を最大限回避する、これが賢き者の必須条件であると同時に生存の掟でもある。それ以外の道とは謀る者のみが都合の良い、木だけを見るように仕向けられた愚者の道である。それもその先に何があるかもわからぬ絶妙なこう配をつけられた下り坂の道である。とは言うものの、愚者は多く、さらに賢き者でさえその賢さより愚かさの方が上回るのが実情であるならもはや言わん方なしなのではであるが・・・。
2012 9/23
Comme l’Art de la fugue comme le travail de Sisyph C’est là notre chemin unique・・・ (M・H) 2012 9/20
321. 東は石の原、西は橋の下にていと怪しげなり
政などなきに等しき時世にて
東は石の原、西は橋の下にていと怪しげなり
貧者がいがみ合い、富者がほくそ笑む
そはいつの世も変わらぬ密なる謀なり
われ先の果てることなき世迷言
欲望の奴婢ばかりが集いて何かある
・
放置された福島はもはや単なる被災地ではなく
放射能汚染の加害地である。
今後ますます放射能汚染加害国としての日本に対する世界の糾弾は強くなるだろう。
これは一国の姑息な手段で処理できる問題ではないからである。
・
もはや木々を見て今までのように病葉(わくらば)を病葉と素直に言い得る時は存在しない。
2012 9/16
320. 武力紛争とは常に生き地獄と知るべし ートリガーの感触は限りなく軽いー
「これは戦争ではない、地獄だと思いました」とは戦争中ある凄惨な光景を目の当たりにした者の言である。このことから彼はその時まで戦争とは地獄以外の「何ものか」で、「正当な戦い」の場であり決して地獄ではありえないと「思い込まされてきた」ことがわかる。しかし、その「何ものか」にたとえどれほどの「正義」があったとしても戦争とは本来的に生き地獄そのものである。もし、多くの者にとって地獄とは目前に現れない限りわからないものであるなら戦争は人類が滅び去る時まで繰り返されることであろう。それを回避するのが人間の英知でもあるのだがその存在もいまだに覚束なく常に苦渋に満ち、欲望は限りもなく、転げ落ちる先が見えてもなおその寸前まで上り詰める。
2012 9/5
319. 「近頃は上から下まで乱れていますからね」
これは40年ほど前の「刑事コロンボ」というテレビドラマの中でコロンボがさりげなく言う台詞である。ここで日本のテレビドラマの警察モノと比較するほど愚かしいことはしたくないので避けるが、概して内容的にも大人と未就学児童ほどの開きがある。
<フラッシュバックー1ー>
「近頃じゃ、上は乱れているというより手も付けられませんな、あれだけ嘘がまかり通るんじゃ私の商売なんか馬鹿みたいなもんですよ、確証をつかんだって簡単に揉み消されてしまう、実に因果な商売ですなー」と言うと、
コロンボは、例のオンボロ車のドアを開けながら葉巻を手にした方の腕を軽く上げ、微笑んだ。
「それじゃ、またお邪魔させて戴くかもしれません」
私に向けられたコロンボの笑顔が最後にならないことを願った。
※因みに、コロンボの日本語吹き替えをやっていた俳優・故小池朝雄氏とは紀伊国屋劇場と彼が出演していたパルコ劇場で話をしたことがある。
2012 8/27
318. イエロージャーナリズム
日本のジャーナリズムと称されるものは概してイエロージャーナリズムである。イエローとは黄色人種を意味している訳ではなく、19世紀末のアメリカの新聞でその連載漫画の主人公が黄色い服を着ていたことからそのような名称で呼ばれることになったのであるが、その内容たるや発行部数を増やすために私的生活の暴露、扇情的なものばかりを取り上げていたのでそれ以後そのような類のものを総称してイエロージャーナリズムと呼ぶことになったのである。どのような形を取ろうがこの手の売文業はなくなりはせぬがそれよりまず社会に対する明解な問題提起と解明の糸口を提示できる者、機関がほとんど存在しえぬことの方が問題なのである。何においても真実を求めることは命がけにならざるを得ないのである。命はかけない金だけは欲しいでは勢いねつ造、計算されたリークの垂れ流しにならざるを得まい。オウム事件の時、オウムの施設内に夜間単身乗り込み調査してオウムの広報部長に「お前は嘘つきだ」と迫ったのはフランス人ジャーナリストである。現在どこを見回してもこれだけの気概を持ったジャーナリストは皆無といってよいだろう。人が言ったことをただ書き留めて伝えるだけでは「伝言板」と変わるところはない。「Aは何々と言った」というのは飽くまで「言ったこと」であって真実であるかどうかは不明なのである。そんなものを寄せ集めてまことしやかにまとめているのが大方の日本の「ジャーナリズム」である。したがってイエローカードを何枚もぶら下げているという意味でのイエロージャーナリズムともいえるのである。それは彼らの言説が根本的に無責任であることを見据えておく必要があるということでもある。その証拠に今までにも言説の間違い、読者のミスリードに対していつ正式に謝罪したことがあるのかということである。その場限りの言いたい放題、そんな「良心」の一かけらもないものに対して自恃の念の乏しい読者が抱く「思い込み」などは哀れな幻想としかいいようがないのである。
※日本では、タブロイド判の一紙のみが他紙と比べてもその切り込み方に見るべきものがあるが、他はすべて完全に底が割れているものばかりである。読むだけ時間の無駄で不買運動の対象物にしかならない。
2012 8/26
317. オリンピックパレードに50万人?
「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」とばかりに繰り出した一部熱狂に身をやつすことが好きな崖っぷちを転がり落ちることにかけては引けをとらない人々とは別にいい意味で「冷めた」あるいは「白け上手」な者の割合も今までとは異質な様相で増え続けていることは確かなようだ。高円寺の阿波踊りの動員数にしても例年2日間で100万人とされているがこれも警視庁の割り出した数値なのでどこまで信憑性があるか分からないとは関係者自身の弁である。それにしてもデモなどの数値とお祭り騒ぎの数値の「下駄の履かせ方」、脱がせ方はまさに露骨にして漫画的でもある。以前より警視庁発表と主催者発表の数値は一桁違うのは多くの者が知るところでもあるが、あまりの違いにいつも驚かされる。「国民を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」と怒り出す者が現れても何ら不自然ではない。
しかし、ここでまた税金を使ってオリンピックパレードをやるか、その魂胆は大方の人々に見透かされてはいるが、都知事の半ば呆けたような老獪さにはこの間の言動も含めただただ呆れ返るばかりである。そのような様を見続けても「誰がやっても変わらない」などと「物わかりのよさ」に自ら溺れていると「シロアリの巣」はますます巨大化するだけのことである。これは確実に国民自身の首をしめる方向にしか働ないというのが論理的帰結であって、それをどのように解釈してみてもその方向からズレる分だけ詭弁にしかなり得ないのである。
どちらにしても、先進諸国一般には、日本人は「ドジョウ」であり、ご都合主義の為政者のいうがままの国民であると映っていることであろう。これは民主国家の国民ではあり得ないということである。
2012 8/25