「ある日、その時」 (21) 2012年6月9日ー

<掲載内容>

293.「国立ハッカー養成所」?294.被災地で「心のケア」? 295.La démocratie de Japn  296.「お子様ランチ」と「イエローケーキ」の好きな国 297.オルフェーブルよ、それでよい・・ 298.青葉、青物、草いきれ 299.首相官邸前に45000人、事実は海外から聞け!300.台本を読むがごとくの街の声 301.「心の闇」?302.6 月29日 首相官邸前に※15万人の抗議デモ303.極薄テレビは風に揺れ・・・304.国民自身が真に試される時 305.クラゲにまで抗議された大飯原発

 

                                              (転載・複製厳禁)



 305.クラゲにまで抗議された大飯原発


 大飯の原発はクラゲの大量発生で2次冷却水を冷やすのに必要な海水の取水量を制限したことで電気出力が1.7%低下した。この地域でのクラゲの出没は今に始まったことではない。今回もクラゲの量次第では原子炉のフル稼働が遅れる恐れもあったと伝えられている。クラゲの発生だけでこの調子である。おそらくクラゲの発生も想定外なのであろう。この地域は越前クラゲ(直径1メートル、重さ150キロ)の生息地でもある。以前、この大型クラゲが異常発生したことがあったが、そうなればこの程度では済まないだろう。冷却水の取水口が完全に塞がれて出力低下どころの騒ぎではなくなる可能性もある。一寸先も読めない目先の利害だけに突き動かされる者達に対する自然界の警告と見る方が「人間」としても賢明であろう。海中に大量に浮遊する海月(くらげ)を見ていると、首相官邸前で再稼働に抗議する人々の「思い」とどこか重なってきて、つい多くの人々の「思い」が彼の地でクラゲに姿を変えてなどと、「人間」と大自然との交感点まで考えてしまう。やはり、「思い」だけとなったクラゲの方は少々過激であったようだ。身を挺して電気出力を1.7%も低下させてしまった。これはそれだけで済む話でもなく、このままではその内に越前クラゲも引き寄せてしまうのではないかとさえ思われる。クラゲにまで抗議された大飯原発は3・11以後の再稼働原発として世界の記憶に刻まれるであろう。それは、総じて「汚点」であるにも拘らず、日本を原発実験場と捉える国には今後も原発データ収集の宝庫としてあり続け、人類の盛衰という視点から見れば間違いなく忌まわし汚点の一つでしかないものとして記されるということである。人類の手に負えないものをどのように「平和利用」できると思っているのか、できると思うことが愚かであろう。「悪魔」をすなわち「悪」を明確に認識できない科学は「不充分」なのである。マッドサイエンスにもはや人類というカテゴリーは存在しない。

                                                      2012 7/8

                                                 


304.国民自身が真に試される時


 国民自身が真に試される時はこれからである。原発再稼働についても、稼働を開始してしまったから終わるというものではない。手を緩めれば第2、第3の原子炉が再稼働を開始するだろう。原発再稼働に対する抗議は忍耐強く常に繰り返し行う必要がある。しかし、それに耐え得るほど人々の気持ちは強く、深いと思われる。それから、増税に関しても、政府広報の大手マスメディア系は連日、消費税増税法案が確定したかのような報道であるが、京都大学大学院教授・藤井聡氏の言うとおり「この法案の第18条(いわゆる景気条項)には、景気の動向を加味した上で、時の政権が増税するかどうか「判断」することが明記されている。ー中略ー(仮に法案が成立しても)増税するか否かは、遅くとも来年夏に誕生する新政権の判断に全て委ねられているのだ。」すなわち、選挙民の賢明な判断にすべてはかかっているということになるのである。当然、既得権益側の利権を守るために政府広報の大手メディア系はあらゆる手を使って目くらましを投げかけてくるだろう。これに引っかかれば増税法案は施行されるということになる。要するに「財政困難」「金がない」など財務官僚と同じようなことを言っているような政治家を選べばそれでアウトということになるのである。政府広報の大手メディア系とは99%の国民側(非既得権益側)にいるようなポーズをとることが実に巧みな、1%の既得権益側の代弁者であるということを肝に銘じて置かないと簡単に彼らの常套手段に乗せられてしまうことになる。難しいことは分からないというのであれば、簡単である。彼らが言っていることを逆に考えてみる作業、それが99%の者たちの義である。「確定」は「未確定」、「限りなくグレー」は「ホワイト」、「金がない」は「金はある」、「ない」というなら見せてくれと言いたくなりはしないか。それが市民の気概というものだ。現に金がないというわりには変なところに使っているではないか。彼らが貶すものはすべて彼らにとって「都合の悪い」ものに限られているというこの当たり前のことを今再確認しておいた方がよいのであろう。彼らには公平も公正も義すらも存在しないということだけは確かなのである。

                                                2012 7/7 

                                                                                雨雲が垂れ籠めて何も見えぬが

                                       牽牛と織女は天の川を渡れたのだろうか


 303.極薄テレビは風に揺れ・・・


 極薄テレビは風に揺れ、「毎日」出づる「朝日」に向かいて鳴く鳥の声にぞ怪しく驚かれぬる

「コケッ、コケッ、コケッター、コッコケーキョーコケー」、!?

見れば「読」むに足る「売」りものとてもなく、あるは「せん妄」「徘徊」ばかりなり。

耳を澄ませば、溺れる者の藁をもつかむ声しきり・・・

 何処の世界でも堕ちるものは静かには堕ちぬもの、周囲の者を一人でも引きずり込もうとする。いつからかアメリカ合衆国日本州になってしまった日本もそのようである。「ドジョウ」は「ポチ」以下であった。独立国としての矜持もどこへやら、今では日本人を見て「侍」をイメージするものは稀であろう。やはり「ドジョウ」である。そうかといってここで時代錯誤の「龍」などを持ち出されても「ブラックホール」に一瞬の内に飲み込まれるだけであろう。「ドジョウ」などという自己認識も実は今に始まったことではない、少なくとも戦後、日本がアメリカに対して常にどこか無意識の領域で持ち続けていたものも「ドジョウ」などという表現で象徴されるものである。それが、期せずして一匹の「ドジョウ」の口から零れ落ちたに過ぎないのである。そいう意味では「正直」なのである。「ドジョウ」の生簀に酸素を送り続ける者たちにとってもそれは都合のいい自己認識である。「ドジョウ」は決して前には進まず上下動しているだけで、いざとなっても藁をつかもうとする必要もないが、今や生簀の土台そのものが瓦解し始めているのである。半ば「酸欠」状態でこの生簀の「酸素」目当てに近づけば結局死なば諸共という事態となる。そして、もうすでに再生不能の完全な死に体状態を呈しているのである。もはや彼らが何をどう言ってみても無駄であろう、自己矛盾と欺瞞をさらけ出すだけである。今後の最重要キーワードは<行為>そのもの、すなわち<何をいかに為したか>である。「ドジョウ」と共に堕ちる者達にもはや明日はない。

 「狡兎(こうと)死して走狗煮らる」は世の常  覚悟はできているかな。

                                                                                                                                         2012 7/2


302.6月29日(金曜日)午後6時、首相官邸前に※15万人の抗議デモ

150000citoyens manifestent contre une mesure arbitraire du gouvernementLe cotenu principal d’une protestation est sur la réopération de centrale électrique nucléaire.


 これは市民としての「健全な」在り方を示すもので、問題のある政府に対する抗議行動は至極当然のことである。しかも、それが自然発生的であることが今までにはなかったことである。原発再稼働しかり、消費税増税しかり、これで黙って何もしないのであればもはや市民不在の国家としか言いようもなく、世界の市民レベルからすれば「信じられない!」国民としか見えないだろう。そこに至っては「寛容」、「優しさ」などという日本人に対する形容は愚民の言い換えでしかなくなる。

 まず意思表示としてその場所に集まることが最優先である。そして、世界に向けて発信し、日本国内にもかくあるという市民の存在を知らしめることが重要である。抗議のためにそこに「いる」ということ自体が大きな意味を持つのである。それが10万人以上ともなればどのような緻密な計算も、作為も無効化する計り知れない相乗効果を生む。実際に参加しようとして参加できなかった市民も含めると優に100万人は超えるのではないかと思われる。そして、それを支援する人々の数はその数値をさらに大きく上回っていることだろう。

 愚民で終わるのか、市民として目覚めるかの岐路に否応なく立たされているのが現状でもあるが、ここ一連の抗議デモを通して多くの市民が「助け舟」としてすでに先例のある便利な通信手段を有効活用する術を実践的に体感したのではないか。それも大きな手応え、実体験の一つとなって今後もさらに大きく拡大していくことであろう。

※当初20万人とあったが主催者発表で最終的に15万人となっていた。フジテレビなどは数の勘定すらできないとみえて14000人と伝えていた。すべてがこの調子なのである。報道機関として一桁も見間違うようでは何の役にも立つまい。「警視庁調べ」などというのも同様で、特にこの種の件に関しては当てにならない。どちらにしてもその内、画像解析した正確な数値なども出てくることだろう。      

                                                    2012 6/29


301.「心の闇」?


 現在、日本では3人に一人がうつ病であるといわれ、統合失調症(精神分裂病)と言い得る者は自らをそれとは認めたがらないのが実情でもある。現代の「狂気」そのものを病院施設に封じ込めれば事足りるとは思わないが、具体的処方である程度の生活が甦るのであればそのようにした方が賢明であろうと思われるケースは多い。フロイトですら精神分析の対象を神経症に絞り、精神病を対象外にしているのである。統合失調症を心理療法で治せるなどと思う方がその「病根」(器質的なものも含めて)の状態を知らな過ぎるとも言える。そうかと言ってそれを「心の闇」などと置き換えると、それは手の施しようのない人間の不可思議な領域があるかのような印象を与えると同時にそれが人間であることの「証」のような錯覚さえを与えかねない。「心の闇」の領域に踏み込んだフロイト、ユングなどが炙り出したものを手掛かりにして捉え直せば「心の闇」などというものもリピドーの発達段階の屈折、歪みが無意識化され蓄積された集合体と解した方が少なくとも「人間」に対して必要以上の幻想を抱かなくなる。「心の闇」を人間の「特権的位置」に置くことで「人間の証」としてはならない。むしろ、「心の闇」の捉え方、在り方次第では「人間」と自分自身が乖離概念にしかなり得ないという視点が必要であろう。

                                                2012 6/29


300.台本を読むがごとくの街の声


 6月26日、衆議院で民主党政権とその周辺が自民党と公明党の助けを借りて消費増税法案を圧倒的多数で可決させた。それについてのNHKの解説は簡単明瞭、特に社会保障についての説明は漫画解説のように簡潔であった。実際には、その仕組みは頻繁に修正、訂正され続けて煩雑になっていて官僚にしか分からないような内容で議員ですらなかなか手が出せないのが現状である。ここまでくると根本から手直しするか白紙再検討するしかないところまできていると思わざるを得ないのだが。このような説明で分かったようになること自体が不可解極まりないことである。したがって、「増税と社会保障の一体化」などといってみても具体的には意味不明で検証の余地などまったくないとも言えるのである。言ってみれば増税するためにのみ都合のよい言葉をくっつけただけともいえる。そして、またそれについてのいつもの「街の声」であるが、多くの市民にすでに見透かされているというのにまだ性懲りもなく続けられている。もっともらしく流暢に話すどこかで聞いたことのある増税賛成の「街の声」、取ってつけたような稚拙さを印象付けるためだけの増税反対の声。すでに小学生にも見抜かれている、「あの人書かれているの読んでいるみたい」。しかし、増税賛成をぶつ若者、老人の顔をこれ程までにまじまじと見たことは過去になかったように思う。少なくとも彼らは大多数の国民の側にはいない者達であるということだけは確かである。もしそうでないなら自らの立ち位置を裏切っている走狗である。

 今、国民としては義士57士に期待するより手立ては残されていない。彼等を助けるためであれば国民は何でもするのではないかとさえ思える。

                                                      2012 6/27        


299.首相官邸前に45000人、事実は海外から聞け!


6月22日夕方、首相官邸前で45000人の一般市民が抗議デモを行った。いよいよ市民と言い得る人々の動きが活発化してきた。各地でもデモがあり今後もさらに大きなうねりを生じていくことであろう。これは市民であれば当然のこと、もはや止めようとしても止めることはできない。

 この件については海外メディアも報じているにもかかわらず、日本で報じたのはテレビ朝日だけだという。一事が万事この調子で、政府公報のような日本のマスメディアの話をうのみにしていたら何においても知らぬはすべて日本人ばかりなりということになりかねない。放射能測定しかり、これではいくつ身があっても持つまい。事実を知りたければ、やはり海外の動きを見聞した方が賢明であるということになる。

                                                     2012 6/25  


298.青葉、青物、草いきれ


 青葉、青物、草いきれ、「青臭い」ものが好きである。総じて、未熟と言う意味で「青臭い」という括り方をするものの境涯の方が肌に合わないことが多い。それは実のところ「円熟」とも「枯淡」とも程遠く、俗臭ふんぷんたるものであったりもするからである。そして、時には腐敗臭、死臭さえすることがある。そのような位置にいるものから発せられる「青臭い」という言葉からは行き場のなくなった閉塞空間を変容、転化させようとする意味作用そのものを無化させられることに対する苛立ちのようなものが立ち上がってくる。枯渇ではない枯淡の境地そのものにあるものにとっては「青臭い」などという形容すらもはや思い至らず、ただその「位置」が明確にわかるだけであろう。この比喩自体にすでに俗臭がしみ込んでいるのである。香を嗜んだものにとって「抹香臭い」などという言葉も俗臭が立ち込めていて不快なものを感じる。

 青葉、青物、草いきれ、

 樒、沈香、白檀、

 何処に厭う理やある

                                                   2012 6/24


297.オルフェーブルよ、それでよい・・・                                        


6月24日、オルフェーブルは己を忘れて、熱き思いを寄せる人々のためにだけ走り続けた。それでいいのである。君と馬が合わない人間達のことなど忘れろ!そんなことに関わっていたら君自身が壊れる。君はすでに見たはずだ、己自身に関わり過ぎた凍えるような風景を・・・・・・おめでとう!よくやった!

                                                       午後の5時


296.「お子様ランチ」と「イエローケーキ」が好きな国


 どこを見てもほんとうに「大人」がいるのかと思われる程「大人」の少ない国である。だから、何をやっても「お子様ランチ」の国なのである。ただ目先の欲にかられて地震大国の小さな国であることも忘れ、身の程もわきまえずに取り留めもなくイエローケーキに手を出す。今や全身イエローケーキ塗れであるが、それでも飽き足らずさらに欲しがる。その様は「人間」を逸脱していて不気味でさえある。ここでまた「人間」は「人間」の形をして生まれてくるから「人間」なのではなく、放置すれば何になるのか分からないのが「人間」でもあるということが思い起こされる。動物界の中でも、その育てられ方によっては容易に狼にも豚にも、あるいは「化け物」、「悪魔」の類にも成り得るのは「人間」だけだからである。以前から日本人の精神的脆弱さを指摘する見解はよく散見されてはいたが、そこに見えてくるのは煎じ詰めれば唯物論的世界観、この場合の近似の意味は単に「金がすべて」ということになるが、結局のところそのことだけに身をゆだねてきた結果としか言いようのないものでもある。それは同時に「精神的なもの」を「計測不能」、実利とはかけ離れたものとして排除、軽視するあまり、逆に精神的「耐性」が次第に欠如して子供だましのようなカルトの類の言説にも簡単に絡め取られてしまうという精神的脆弱性を必然的に導き出すことにもなった。しかし、宗教を最終的ビジネスととらえるカルトの指導者と国政を最終的ビジネスととらえる者と一体どれだけの質的相違があるのか、両者にそれ程の質的差異があるとは思えないが、ただ両者に共通して見えてくるのはたとえどれだけ社会的影響力を手中に収めても「人間」としては成育過程で多くの欠如態を持つ「大人」になりそこなった、なり得なかった者の姿である。ここでいう「大人」とは、少なくとも常に検証に耐え得る何らかの「世界観」を持った、すなわち、常に現実との照合を怠らない「理念」を持ち続けることのできる「自由」の意味を真に心得ている者とも言える。それは完結することのない歴史の全体化作用にしっかりと身を置ける者でもある。

 「壊れちゃった」と平然と言える自分のことしか考えらえない未成熟な連中の中でいつの間にか国が崩壊していたということのないように願うだけである。

                                                   2012 6/21


295.La démocratie de Japon ne tient qu’à un fil. Ou elle n’est pas là dès le commencement・・・・・


La politique de Japon n’est pas politique et la démocratie ne tient qu’à un fil.

Les faibles abandonnés・・・・  le souhait du public a été trahi.・・"A bas la bureaucratie" c’est là notre souhait unique.Qu’est ce que la bureaucratie? Dans un certain sens c’est le fascisme.・・・・

                                                                                                                                     2012 6/13


294.被災地で「心のケア」?


 同時にやるべきこと、優先順位を間違えていないか?

 被災地で「心のケア」と称して遺族らに「お話をお伺いします」などと呼びかけているらしいが、すでにその姿勢自体に「驕り」があると思われる。いくら研修を受けてもそれで人の心を癒せると思うことが誤りなのである。場合によっては他に意図があるように思われても仕方あるまい。善意の押しつけは人の心を酸欠状態にする。被災地で、身体的にも、物理的にもすべてがまだ未解決のままで「心のケア」とはすべてにおいて不自然なのである。現状は難民キャンプに等しい、そのような状況の中で「心のケアに参りました」、「悲しみはこの時期にこうなり、今後はこうなる」などと講釈を垂れることにどれほどの意味を見い出し得るのか、それも救済者のような姿勢で押し作られては遺族は戸惑いと鬱陶しさを感じるだけであろう。敢えて言えば、そこにはカルト集団の「営業活動」と同質のものさえ感じられる。そのようなことより、遺族がそこの瓦礫を取り除いてほしいと言えばそれが先決である。僧侶といえども場合によっては僧衣を捲し上げ遺族と共に「池を掘る」のがほんとうの僧侶の姿である。

 人の悲しみなどは他者が救済できるものではないと思い知るべきである。特にパターナリズムのような姿勢では全く不可能である。激しい身悶えするような悲しみから少しでも穏やかな悲しみに自らの力で立て直す方向に随伴することしかできないのがカウンセラーであり、僧侶でもある。場合によってはそれすらできない時もある。そういうことを知らなさ過ぎるから不自然なのである。哲学のない心理学は容易に政治戦略と結び付く。そして、また「御用学者」の暗躍ということになる。現実は何も変わっていないにも拘らず気持ちだけは「天国」というようなものではそれもまた一つの「狂気」と言わざるを得ない。もしその実態がこのようなことであるなら、それはあまりにもお粗末な解決方法と言わざるを得ないし、何の展開も内面的深化の手掛かりも見出せないことになる。それでは「薬物」依存と変わるところがない。

 

                                                2012 6/9


293.「国立ハッカー養成所」?


 このような企画は2003年頃から持ち上がっていたようであるがここにきてますますまた現実味を帯びてきた。今まで犯罪者扱いされていたハッカーが今度は国の要請で合法的な存在となり、それを何と称するのかは知らぬがそれに対するものを「クラッカー」とでも呼び識別するのであろうか。どちらにしてもまた際限のない攻防戦の幕開けである。この世界では高いレベルのハッカーを「グールー」と呼び、さらに最高レベルのハッカーは「ウィザード」と呼ばれているそうである。そして、彼らが基本的に攻撃目標としているのは「巨大」という形容動詞の語幹がキーワードとなる権力サイドに限られている。したがって、彼らが権力者側に付かない限り我々市民レベルは攻撃対象にはならないので、妙な恐怖心を煽られ踊らされる必要もない。

 思うに、国に囲われる者の中からは決して「ウィザード」は現れないであろう。すべてに於いてそうであるように突出した「才能」を持つ者は余程の特殊な事情がない限り国とは相容れなくなるからである。たとえば、この間に再びその名を馳せた「御用学者」に象徴される「御用集団」などとはそもそもの成り立ちが異質なのである。最近、防衛相になった某大学教授なども「御用学者」の類で、政治的には何もできないことを見越された上で、程よい傀儡に成り得るから選ばれたようなものである。ただ「素人」の怖さが残るが、それも教授としての自分の才に見切りをつけた者がどのような徒花を咲かせようとしているか計り知れないところもあるという意味でである。もしそうでないとすると相当におめでたい人物であろう。テレビに頻繁に出てくる「識者」、「ジャーナリスト」などはこの程度のもので,「本物」は皆無に等しい。総じてテレビは安易であるだけに却って黙って観ているだけでかなり危険なものとなる。自転車と同様である。

                                                   2012 6/8

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