これは曽野綾子、近藤誠両氏の対談集の題名だが、私も常々そう思っていたので両氏には題名だけで共感以上のものを感じるのである。この対談集は近々読む予定であるが、まだ読んではいない。「死ねば宇宙の塵芥」ということをもし明確に捉えていれば自ずと現在生きていることの「重大さ」が見えてくるはずなのである。実のところ、人間にはそれ以外には何もないといってもよい。「あの世」を措定すること自体が現在の生を溶解させる要因を作ることにもなる。人類の智慧の成就に捧げる「教え」でさえ、「あの世」のはっきりとした措定は避けざるを得ないのが実情なのである。いつ、誰が墓などを作れと言ったか、少なくとも釈尊は言っていないし、遺骨に、物化、物質化してしまったものに、何かあると思う方が不自然で、それは「思い込み」と同質の通俗「信仰」レベルの対象であるに過ぎない。実のところ墓の下などにはもはや「故人」を偲ぶものさえないのである。死ねば宇宙の「塵芥」となるだけであるという明確な意識がなければ真の智慧も得られまい。「あの世」を措定し、あるいは「我を忘れ」て「現にあること」の意味をなおざりにする者たちを私は信用しない。
後は対談集を読んでから、また始めよう
2018 9/1