41.継続は力にあらず

 「継続は力なり」とは時折耳にする言葉であるが、継続の意味の捉え方によってはかなり違った意味合いにもなる。もし、継続自体が目的化した場合、継続が力になるどころか継続行為そのもが他の自由な展開を阻止し始める。それは、「繰り返される行為」によって質の矮小化変容をもたらし、いつしか有機体全体を損なう「腐食剤」を合成するかのようである。「継続は力なり」の英訳は「Practice makes perfect」ということらしいが、「継続」というコンセプトと「Practice」というコンセプトはつながりようがない。もしそれを明確に関連付るとするなら哲学的小論文程度の説明が必要となるだろう。日々の「実践的鍛錬」が結果として継続的になされた場合一つのものを作り上げるであろうというのであればある程度理解もできるが、それでもその「実践的行為」が止むに止まれない行為なのか、飽くまで努力の領域にあるものなのかによっても違ってくる。努力とは作為であり作為には限界がある。現実的に多く見られる「継続」とは一過性の作為的「努力」の後に続く「惰性」であるといっても過言ではない。そこには瞬時に変転する新たな発見もなく「更新」もない。少なくとも「更新」のない「継続」とは単に脅迫観念に駆られて「続行」を余儀なくされた「衰退過程」という意味以上のものを持ち得ない。実際に、「継続は力なり」と思い込んでいる者に対して「継続」そのものにしがみつく妄執を感じてしまうのはそうした事情によるのであろう。それは趣のないあわれさと不誠実さを併せ持つ。時と場合によっては潔く捨て去ることも必要なのである。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということもある。

                                                  2013 6/29

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