これは「HOME LAND」という米国連続「テレビドラマ」の出演者が直接視聴者に向かって語ったことであるが、この作品は批評家にも高く評価され2011年ゴールデングローブ賞も受賞している。日本ではこのような内容の作品はテレビドラマのレベルでまず登場することはあり得ない。映画上演なども不可能で、企画にも上ってこないであろう。今、現実に起こった問題を題材に日本の首相とCIAの駆け引き、陰謀を扱った映画を一体誰が撮れるというか、やはり「<竹光>文化」と「<本身>文化」との違いである。さらに言えば「お子様文化」と「大人の文化」程の差があるともいえる。閉塞空間の中で微細なことを取り上げては何かあるがごとくに拡大化してはみるが、大方がとどのつまりは型どおりの類型的な対応で情に棹さし事足れりとする方向に進む。日本ではそうした「ちまちまとしたもの」しか目に入ってこないのもそのようなことに起因するのであろう。「ちまちましたもの」とはあってもなくてもどうでもよいもの、僅かな印象としてもまったく脳裏にその痕跡を残さないものということである。常態化した閉塞感の共有認識を追尾するだけでは何ものをも生み出し得ないという証左でもある。
待合室などでたまたま手にする週刊誌などの内容も至る所閉塞空間でのネタ切れ状態という様相である。言ってみれば、どうでもいいことにしか手が出せないことからくる陳腐なネタの精製・加工作業を見ているようなのである。これはある意味では自主規制でもある。言論の自由、表現の自由と言いつつ実質的に自主規制に長けた国、すわち言論、表現が統制された国というものが存在するならそれは民主主義国家とは言えまい。自由な発信者としてしか意義がない芸術領域に身を置くものでさえ今や自主規制という「毒」が全身に回っているのではないかという思われるのが実情である。況やそうでない者達は尚更であろう。「空気を読む、読まない」などという姑息な手段が賢さの証でもあるかのような風潮もその一つの流れである。
閉塞感の共有認識を追尾するだけでは何ものをも生み出さないというのは、「閉塞感の共有認識」によって生きる「辛抱強さ」が多少なりとも得られたにしてもそれと同時に生そのものに対する「放棄」が「アキラメ」という形でどこかに忍び込んでくるからである。忍耐強さの真の力は、それと分からずに何もかも背負い込むことではなく、事の次第を「明らめて」その重さに耐えることである。その違いはその先に具体的な「道」が見えてくるかこないかで分かる。今まで「ちまちましたもの」としか言いようのないものが常にどちらに寄与していたかは明らかで、それは「肝心なもの」が抜け落ちているということからくるのである。言い換えれば「肝心なもの」が抜け落ちているから「ちまちましたもの」にしか成りようがないのである。そして、人はそのようなちまちました「核のない造形物」よって容易に欺かれるのである。「核のない造形物」とは実際には一瞬たりとも在り様がない「無」そのものでもある。
今後も日本のアメリカ追随は限りもないことであろう。いっそのこと行く着くところまで行ってみてはどうかとさえ思える。「アメリカ合衆国日本州」、それが日本の現状のあからさまな実情認識である。そしてそこからのほんとうの「独立」がどのようなものになるのか。そのような時間を経て日本がどのように自己認識していくかによって日本の文化的営為も真に変わり始めるのかもしれない。
2013 5/6