38.何度でも亡びる覚悟が必要

 ある真摯な芝居創りを目指すグループが宮澤賢治の「農民芸術概論綱要」から「職業芸術家は一度は亡びねばならぬ」という言葉を出して生き方そのものの変革を通して演劇創りを全的に捉え直そうとする試みをしている。このような試みには私は賛辞を惜しまない。

 賢治のいう「職業芸術家」とは「本質的なるもの」とはおよそ縁がなくなりつつある多くは今流行りの売文業者、美術「屋」、音楽「屋」などの「〇〇屋」と称されるべき類のものが該当するのであろうが、「職業芸術家」に限らず内的必然性に突き動かせれている「芸術家」であるなら、そして誠実であればあるほど「亡びの時」は直感的に把握し得るものであろう。それはそれまで積み重ねてきたすべてを根底から覆さざるを得ない時でもある。あたかも観念論、唯物論の「呪縛」との対峙を経て、さらに「百尺竿頭一歩を進む」(竿の先の頂点からさらに一歩を進み出る)がごときである。要するに「完成の時」は存在しないのである。「完成の時」はあってなきに等しいものである。言い果せて何かある、やり果せて何かあるなのである。そのことによって実際何が本質的に変わり得たというのか、現に同じ過ちは性懲りもなく繰り返されているのである。それでは各々の進むべき一歩はいかに導き出されるのか、それはやはり各自の問いかけの固有の「密度」の中にしか見い出せない。「職業芸術家」のみならず今や万人が否応なく程度の差こそあれ何度でも亡びることを強いられているのである。世界はその方向に軋みつつ回転し始めている。

 チェルノブイリ、3・11は前世紀から今世紀にかけて未だに解決方法の道筋すら見いだせない「ペスト」である。それはもはや「死」そのものでもあり、見ようが見まいが、忘れようが忘れまいが現前と人間の時空を超えて存在し、影響を与え続けるのである。

                                                   2013 2・28                                

 

 

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