37. 定常宇宙論にまどろむ人々    平山勝

 ご存知のように定常宇宙論、すなわち宇宙は大局的に定常にあるという宇宙論はビッグバン宇宙論の根拠として宇宙背景放射が発見されて以来今では否定されている宇宙論である。それは我々が住む地球を含めた太陽系も永遠ではなくそのバランスの崩壊はいずれやってくるということでもある。天の川星雲とアンドロメダ星雲の衝突は避けられず、その時地球はどのようになっているのか明確な予測も立たないのが実情である。月も地球もその存在さえ覚束ない。太陽もエネルギーの枯渇とともに膨張し始め地球を飲み込むとされている。そのはるか以前に地球上の生命体は絶滅しているであろうが、もし人間が宇宙における唯一の知的生命体であるならその時点から宇宙は自己認識されることもなく宇宙法則だけが存在することになる。

 私もホーキングのようにビッグバン以前に創造者、すなわち「神」がその存在者として入り込む隙はないと思っている。そして当然「天国」なども存在し得ないと思っている。だから、「神」も「天国」も想定しない領域から浮かび上がってくるものをだけを拠り所に今を生きている。宗教もこうした科学者の提示に答えらないものは少なくとも私には問題外なのである。たとえば仏教についは、いつ釈尊が「天国」について語ったかということでもある。「霊魂」についても同様やはり「語り得ぬもの」については語らなかっただけである。「方便」も過ぎれば「騙り」になる。本来の仏教思想は合理的なものも兼ね備えているのである。

 定常宇宙論にまどろんでいた人々は、月の消滅、地球の消滅、太陽の膨張が必ず訪れるという科学的帰結がはっきりしている現在でもなおどこかで太陽系は不滅であると思っていることであろう。科学的視座から見ればそれは「信仰」というよりもはや「盲信」であろうが、エルサレムが無であると同時にすべてであるように今尚人々を突き動かして止まないものでもある。それは日本においても同様である。科学者にとって、一つの解明はさらに未知なるものの存在を明らかにするものでもある。その未知なるものを「神の手」と称することもあろうが、それは限りない探究心が引き起こす人知では計り知れないものに対する畏敬と敬愛の念でもある。自然現象に対する共振、畏敬と敬愛という心の在り様は純粋に科学的対象とはなりにくいがそのような精神的営為そのものをも宗教の領域として捉えれば「宗教なき科学は不完全」となることも納得できる。もしそこで「宗教」が不在であるなら今度は科学を絶対的なものとして「信仰」する姿勢そのものが問題となってくる。それはアプローチそのものを目的化、神格化することでもあり、唯一宇宙における自己認識が可能と成り得る人間の「全人格」を形成する一部が欠落することにもなるからである。と同時に「科学なき宗教は盲目」なのであり、科学的視座からの照射に耐えられぬ宗教はやはり展開のしようのない単なる思い込みの世界となり、真実、真理とはかけ離れてくる。

 今、依って立っていたすべてが根底から覆され、その地平は激しく揺れ動いている。地球の中心も無重力の奇怪なところである。そんなことを気にして日々生きることはできないが、宇宙の世界の様相を明確に把握して生きるのと訳も分からず生きるのとでは生き方の質が違ってくる。限られた時間にどこまで見届けられるかそれがすべてである。ホーキングもそうであろう。なぜなら、実はそれ以外に我々のやれることはないからである。

                                                 2013 1/6

 

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