私が高校生の頃、我が家は新築のため取り壊されたが、その時、門柱に張り付いていた金属片に「杉並村高円寺原」とあった。麻布から高円寺に移ってきたのは大正期か昭和初期であろうが、その時点で2,30年は経過していただろう思われるその建物は明治か大正時代のものであろう。終戦直後、高円寺の駅から徒歩で10分ほどのところにある我が家から高円寺駅見えたほど辺りは焼け野原で何もなかったらしい。今では想像もつかないが、それは二階建ての木造家屋がポツンと焼け残り、高円寺駅を見渡していた恰好になるのである。父は高円寺にも荻窪にもかなりの土地を持っていたが終戦直後のどさくさの中で失い、あるいは手放してしまった。
環状7号線のど真ん中で、時々来る車を避けながら雪合戦をしていたのが小学生の頃で、あれからすでに40年以上が経っている。祖父母の代から数えれば彼此100年以上のお付き合いになるのが高円寺である。どのような路地を歩いていても子供の頃の思いがその場所に瞬時に再現されて時々息苦しくもなった頃もあったが、今では私の高円寺の風景の多くは跡形もなく消えている。友が訪れればいつも決まって頼んでいた65年の高円寺では老舗の鰻店も最近消え、半世紀以上は経つであろう威勢のいい八百屋もいつの間にか店を閉めていた。たまたま高円寺で知り合った人々の多くも次から次へと亡くなって行った。時が経つとはこういうことかという思いが一入の昨今である。映画「Always 三丁目の夕日」にも高円寺は登場してくるが、今ではその面影はほとんどない。過去は一瞬の深い溜息の直前にしか生きられないのだろう。今、往来から、また路上に張り出された飲み屋から聞こえてくるのは喃語、一語文、ジャーゴンの類である。とても入り込める領域ではない、また入り込むつもりも関わっている時間もない。
歩きながら、 ワイルダーの「わが町」の台詞が素直に過る。
2012 6/3