<書評> 音楽評論家・日本フラメンコ協会会長 濱田滋郎
橋本ルシアさんの舞台は申し訳ないことにかなり以前一、二度観ただけだが、東京大学哲学科卒という異色の経歴を持つバイラオーラとして、活動を続けておいでとは認識していた。このたび上梓された、400ページに及ぶフラメンコ論「フラメンコ、この愛しきこころ」(副題「フラメンコの精髄」)を一読して、アーティストの余技などとはとても言えない、探究・文献渉猟の広さと深さに支えられた、しかもオリジナルな思考と洞察に満たされた所論が展開していくことに讃嘆をおぼえた。2003年、本書の原型となった論文「フラメンコ芸術の精髄」によって博士号を取得したとのことだが、文筆家としてもすでに一家をなした人の、論法に狂いなくしかも味わいに富む筆致である。章立ては、「”実践的”問いかけの意義」と題された序章につづき、1、フラメンコの語源について、2.ジプシー、3.フラメンコ以前ーアンダルシアに伝わる歌や踊りー4.フラメンコの歴史、5.フラメンコの実践論ーバイレから見たフラメンコの実践的本質ーと5つの章が設けられて、終章「残された問題」で締めくくる。
どの章もそれぞれ熟読に値するものだが、第2章における、果たしてジプシー(注、この著者は昨今進められている「ロマ」への言い換えを断乎拒否するかのように「ジプシー」で通している)は日本に渡来しなかったのだろうか?というテーマにまつわる考察ほか「日本人とフラメンコ」を見究めるための新しい、かつ必要な視点が示されていることを特筆したい。また第3章において、フラメンコの基本をなす「ミの旋法」の原点に、古代ギリシャの悲劇の調べである「リノスの歌」を想定しているのは、傾聴すべき卓見に違いない。けっしてたんに思いつきの仮説として提出するのではなく、多くの資料を揃え、説得力充分の推論を繰りひろげているのである。
そして、最も独創的で、読者を惹きつけるとともに深く考えさせる力に満ちているのが、第5章である。バイレの実践者であって初めて感じ、思い、かつ伝えることのできるものごとを、著者は語る。とりわけ、従来、不動の真理のように言われてきた「フラメンコはカンテが中心」「カンテが先」という考えにーカンテを深く尊重しながらもーあえて異を唱え、カンテとバイレの本質的な一体論、等価値論を述べるその語調には、うなずかざるを得ないものがこもっている。この書は冷静な分析の書というには熱すぎる底流を通わせており、そこが「フラメンコへの愛の書」たるゆえんで共感をそそるのだが、この第5章では底流が表面に噴出する趣で、いささかアグレッシヴにもなる。しかし、ジプシー魂、フラメンコ魂への果てしない愛情、「日本人の自分も共有できる」という自覚と喜びに支えられたこの名著が、今後長く大きな意義を保ちつづけるであろうことは疑いない。まるで演歌のようなこの本の題も、読後は真にふさわしいと思える。
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※この書籍については「エモーショナル・フラメンコ」などという匿名ブログでも取り上げていているが、これは濱田滋郎氏の書評と比較すれば一目瞭然であるが、この書籍自体を扱いかねているようなフラメンコ愛好者の消化不良な「感想」の域を出ないものである。その「感想」の中に出てくる「恣意的な云々」という言葉遣いも不適切というより核心部分が読み取れていないことの証左でしかないだろう。濱田氏も言っているように根拠となる「多くの資料」挙げて「想定」、推論尚且つ身を以て実践しつつ展開することを「恣意的」とは言わないのである。もしこれが「恣意的」であるなら、すべての「新たな視座」を持つ論文は成立しなくなる。根拠もなく勝手に「思いつき」で展開することを「恣意的」というのである。そういう意味では、まさにこの匿名ブログ自体が恣意的なのである。しかし、正体不明の無責任な匿名ブログにはこのような類の「噂のような批評」「批評のような噂」が実に多い。