12. Buscando mi vida (2) M・ Hirayama

  どの世界でも半可通ほど喧(かまびす)しい者はない。身の程知らずの「楽しい」集いであろうが、結局得るものは何もないというより、欺瞞的な人生を送りながら「自己」を失うことになるだけであろう。フラメンコの世界ではよく「フラメンコは人生である」などと言われるが、そこには「怖いもの」が秘められていることに特に大方の日本人は気がついていない。それは、たとえば「権威」に寄りかかりながら「自己」を失っている者、商業主義的手法に「すべて」を絡め取られている者、ごまかしながら何とか取りつくろって生きている者、その人間のありとあらゆる人生が否応なく「フラメンコ」というものの中に立ち現われてしまうと言っているのである。したがって、嘘をつきながらごまかしながら生きている者の「フラメンコ」はいくら取りつくろっても、技術的に向上させてもやはり「偽りのフラメンコ」以外の何ものでもないということになる。

 また、「原初的なもの」以外はすべて「本物」ではないかのような「姿勢」を「貫く」ことが「本物志向」と「錯覚」している向きもあるが、そこには今を生きているアーティストの「やむにやまれぬ」血がにじむような葛藤がないと言う意味でアーティストとして生前硬直が始まったものと見なすことができる。その「姿勢」たるや、博物館の陳列物といつのまにか「同化」してしまった守衛かガイドようなものである。それはまた悪しき「伝統主義者」の陥る陥穽でもある。そこに一旦入り込むと出てくるのは容易なことではない。なぜなら、怠惰で、きょう慢な精神にとってはそこは一番居心地がいいからである。もはやそこに安住する者は「芸術家」と呼ばれ得る領域の住人ではあり得ないことだけは確かである。

 「フラメンコは似非(えせ)人生」と言うような者ばかりでは、何とも情けない話であるが、「一級品」で身の回りを「飾り立てているだけ」の「2流」の人々の悲喜劇など見たいとも思わない。一般人からアーティストに至るまで「ブランド志向」などと言われているものは「自信」のない証であると同時に「自恃の念」の欠如というより他に言いようがないのである。

 

                                                                                                                                                         2010年 5月

                              

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