〇「ホンネトーク」系の番組はこれまでにもいくつかあったが、どれも適度に制御された、すなわちコントロールされたもので「ホンネ」などとは程遠いものである。この手のものは、それらしくいかにやっている振りができるかにかかっているだけ。要するに、「振り」、「ポーズ」がすべて、実際、ターゲットされている者などの位置は実害がない弱者なかりで、目糞が鼻糞を笑っている程度のものでしかないにもかかわらず、少々非があった「弱者」を「ホンネ」と称して攻めまくる。実のところは、弱い者いじめのトークなのである。たまには「強者」をターゲットにしたらどうか思うほど情けないものである。それとも「ホンネ」とは「弱者」いじめの専売特許なのか。こんな風潮が蔓延しているのでは学校での寄ってたかっての弱者「いじめ」もなくなるまい。
もういい加減「ホンネ」、「毒舌」にかこつけた「弱者いじめ」はやめたらどうか。
〇しかし、震災、災害ですら正確な情報は得られないというのが実情である。情報がないわけではなく情報が得られていてもパニックを避けるためなどという理由で流さないこともある。3・11東日本大震災でもそうであった。携帯なども緊急事態ではほとんど使用不能である。何度も言っているが、日本は地震大国なのでどこで起こっても不思議ではないのである。にもかかわらず地震観測地点が破壊されている(?)か「想定外」の震度でデータが取れないというありさまである。肝心な時にこれである。これからまだ「二百十日」といわれる昔から農家には厄日として知られる台風が頻繁に来る期間でもある。震災の具体的な対策もままならぬ状態でまた台風である。「自然」は容赦なしである。
しかし、「ヤバイ、ヤバイ」しか言えない人々、状況がまるで見えていないようである。ゲーム感覚のまま死に至るケースでもある。これに想像力の欠如が加われば死は常に目前にある。
2018 9/6ー台風後の北海道地震ー
〇能書きタラタラ、作為もタラタラ。目にする文字も耳にする言葉もペラペラコピー・・・突然、飛び出すCMは90デシベルでは距離を置きたくなるのも当然。
〇「日本〇〇協会」と名の付くもの、その「怪しさ」はどれも同じようなものである。その証拠にその組織の「中心」メンバーはいつまでも変わらないであろう。変わらなければ必ず腐るのである。
〇長く続けてきたこと自体でそのすべてを肯定することはできないし、それだけで評価することもできない。それは時間の経過とともに必然的に腐る要因が作り出されているからである。更新された程度では腐敗の拡大は止められないというのが人間事象一般である。現状がそのすべてを見せつけているであろう。いつまでも大中小の既得権益にしがみつく者たちを「どう始末するか」が今後の大きな問題の一つでもある。
2018 8/31
〇「住みたい街」のランキングなどを見ていると、これはワーカホリックの住みたい街ということではないかと思われることがある。私には特に住みたい街などもないが、気に入らなければ離れるだけのことである。
〇「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」芭蕉の好きな一句であるが、今年の夏は、木々から落ちていた蝉を何匹見ても、蝉の声とは結び付かず、その声を聞かなかったことにも気付かなかった。今年、蝉は鳴くこともなく死んでいったのである。
2018 7月ー8月
〇内閣府発表「74.4%が現在の生活に満足、過去最高を更新」(NHK、サンケイ)(2018/8/24)何をか言わんやである。現状とはまったく乖離している数値である。那須の別荘地の風通しのよい芝生の上で測った温度を全国平均値にしているようなもの。
〇甲子園を盛り上げた金足農と投手の吉田君、その笑顔とすがすがしさを讃えるのはいいが、野球評論家ではなくてもその投球数が心配になるのが「普通」ではないのか。彼の将来を考えればなおのことである。盛り上がりに水を差す気はないが、冷静さを欠いた熱に浮かされたような情動ばかりでは、実質的に「消耗品」としてしか扱われぬ「英雄」しか生まず、それは悲劇でしかない。そこで「特攻隊」のごとく燃え尽きるのが本人の本当の「意思」であるなら話は別であるが、そうではあるまい。
〇目的のためにはまったく手段を選ばないことが日常茶飯事で、常套手段化している状況。これは明らかに尋常ではないが、何気なく「普通のこと」と思わされているから怖い。「皆やっていることでしょ」、「皆、思っていることでしょ」という呟きが奥でこだましている。
〇電気自動車、この音もなく近づく車でまた加害者と被害者が増えるであろう。日立、東芝も原発事業から離れられず。
〇「目的に対しては合理的」という表現、使い方によっては何ら問題はなかろうと思われるが、これを某御仁の政治姿勢に使うから問題となるのである。すなわち、単に目的のためには手段を選ばないというだけの行為を「目的に対して合理的」と言い換えただけなのであるが、それは「理」ではない。敢えて言えば「合非理」的なのである。こうして許されざる行為を様々な手を使ってフォローする有象無象の手合いが浮遊しているというのが現状である。
2018 8/22
〇「代々木上原」の宣伝コピーに遣われている文言の「勝ち組のイメージ」、「権力者たちの気品が残る街並み」などには閉口してしまった。言ってしまえば、感性があまりにも俗っぽいのである。そもそも「権力者」のどこに気品があるのか。銭を持っていただけで文化レベルの高い者は極めて稀である。下手なことして自滅していく街も多くなっているが、どの街も一日して成らずである。そして、失われてしまったものは決して取り戻せないということである。
〇スポーツは好きだが、スポーツ選手、関係者(特に解説者など)が調子に乗ってその経験則と人生訓などを開陳し始めると一瞬して興ざめすることが多い。やはり脳髄の鍛錬が未熟で、精神的深化が見られるのは極めて稀である。底が割れているのもわからず喋り続ける愚かさ。
〇大方の大手マスメディアが流しているもの(主に政治面)をそのまま鵜呑みにしている者とは常に後手に回るか、踊らされる者たち、決してその先にはたどり着けない者たちということである。今や、マスメディアは情報共有操作機関に過ぎず、そこからどこまで「本当のところ」を解読、導き出せるかがすべての岐路となる。口を開けているだけでは何を食わされるかまったく不明で、口当たりのよい毒まんじゅうも多くなっているということである。
〇国と政権を同一視する、そういう「民」がまだいるらしい。「永世独裁国家」でもあるまし、政権などというものは所詮は一過性のものである。国民にとって不利益なことをする政権は変えればいいだけのこと、取っ換え引っ換えする程度の代物で、本質的な内容をなどあるはずもなく皮相的なものである。もっともらしい「不変性」が極めて危険なのである。
〇「ジャンヌダルク」を気取る議員、「帝王」を気取るボクシングの会長等々、さしたる理由もなく自分に酔うこと、思い込まないと成り立たぬ虚飾の数々などが、いかに見苦しいかを見せつけられる昨今である。因みに、ジャンヌダルクの行動は処女の無垢な信仰心がないとまったく成り立たない世界である。その点でもジャンヌダルクを気取る議員とは似ても似つかないまったく無縁な存在であろう。気取る方も見立てる方もお里が知れてしまうということである。火刑台に至るジャンヌダルクの全過程を見よ!
2018 8/18
〇「サマータイム導入」、健康面では百害あって一利なしという結論は当然であろう。この「サマータイム導入」に都合のいい「試算」というのもまったく信用できない。一体何のためにこんなことをやるのか?やはり「オツム」の具合を疑わざるを得ない。経済効果がある?ウソであろう。その経済効果とは?誰が利する効果なのか? 「サマータイム導入」が「マラソンの暑さ対策」などと言われて、簡単に納得してしまうと、とんでもないことになる。たかだかマラソンのために国民の生活を犠牲にするなど本末転倒であろう。いつものパターンと言えば言えなくもない、軽いノリで言葉巧みにまとめようとするが、そのことによって国民の生命が危機にさらされることなどおくびにも出さない。人の命をすべて手段としか見ない者の口車に乗っているとやがて崖っぷちから投げ落とされてもわからないということになろう。
またこの言葉を遣うが、一事が万事、一部の「現われ」からすべてが見て取れる。一事の微分析ですでにその全体像は割り出されているのである。
2018 8/16
〇この時期になると、いやでも「阿波踊り」が目に入ってくるが、やはり「踊るアホに見るアホ」である。あんな単調な、それも本来のエネルギーと個別性がなくなった変に統制の取れた行進のような「動き」をいつまでもよく見ていられるものだと感心する。
〇テロ組織に人質となっている日本人について、大方の日本人は自己責任、自業自得くらいにしか思っていないか、またそのように思わされているというのが実情であろう。「サンデーモーニング」の中で安田菜津紀が我々には「知る責任」があるということを強調していたがその通りである。要するに、「当局」は何でもかんでも「粛々と進める」の一点張りでその一部分さえ伝えようとはせず、実のところ何をやっているかわからぬ内に、人質にされた者の自己責任、自業自得という「印象付け」を御用の筋の報道機関の協力を得て「粛々と」浸透させるパターンである。実際、以前殺された人質についても当然という程、無関心そのものであろう。この無関心がやがて増殖・拡大し、人間性の証でもある共感そのものを破壊するのである。そのような実情を超えて「知る責任」があるということは実に「重い」のである。
因みに、ただ食いたいものを食って笑って思考停止状態で百歳まで生きても酔生夢死では認知症になるしかあるまい。
〇「悪い人間とは思えない」というような、さも自分は人間を見る目があると思わせる風な言い方をする人々がいるが、ほとんど当てにならぬ。それは、そういうこと言った人間を見れば一目瞭然。人間は「やったこと、やっていること」だけがすべて、それ以外は大なり小なり自分の思い込み、幻想、酔狂の域を出ない。
〇アゴラとは、古代ギリシャでは市民が政治、哲学を論じて過ごしたポリス(都市国家)的生活の中心であるが、今、このような名称を敢えて遣う者たちとは内容的には「逆走」するケースが多々ある。ご多分に洩れず日本の「アゴラ」と称する「発信組織」の実態も戯言をぬかす顎等(あごら)という意味に最も近いと思われる。
※顎(あご):まくしたて、へらず口をたたいたりすること。
今更、言うことでもないが酷暑の折、五月蠅い蠅のせいでつい・・・
2018 8/12