134.つれづれに一言で片づければ (15)24件(222件)

〇 DNA鑑定の結果が出ても犯行を否認し、挙句の果てに被害者側を非難、攻撃する。これは政権の今まで為してきた一事象ではなく、巷間の忌まわしい事件の容疑者の一連の言動であるが、ここに表れているのは「人間」の破綻である。とても「人間」などと言える領域にはいない者、悪びれる様子もなく白を切り通す、開き直る、完全なる「人間」破綻者である。この種の者に限って口八丁手八丁で舌は三枚四枚もあるかと思われる。

                                                                                         2018    6/20

〇言うか言わないかはさておき、批判精神の欠如、衰微は人間そのものの衰退でもある。「政権批判はやめよう」などとは論外中の論外である。そもそも政権などは批判がなければどうなるかわからない危なっかしいものである。特に現政権などに黙認できる個所など一か所もないであろう。それを容認する人々とはやはり「特殊な人々」なのである。

                                                                                                     6/19

 〇様々な問題が噴出しているオリンピックなども解体の時期にきているのだろう。選手にとっても世界レベルで競う場は世界にいくらでもある。どのような組織も検証・チェックしなければすぐに金権が絡む「悪の温床」となってしまうということは「人間」がやっている以上避け難いということであろう。

                                                                                                       6/17

〇「日朝会談」?スーパーライトの内弁慶のシンゾーが何を話すのか?どうやってもトランプの顔色をうかがいながら血税で札びら切ることぐらいであろうか。どちらにしてもすべてはポーズ。よくここまでポーズだけでやってこられたものである。異常である。このポーズ群を高く評価しているのはシンゾー・シンジケートのメンバーだけであると敢えて言い切る。

因みに、「ライト」とは軽さ、決して光、明るさの意味はない。もちろんrightの意味もない。スーパーダークライトとでも言おうか。また、100%一心同体ということは片方の存在意味はないと言ってるに等しい。影が薄くなるのは当然である。蚊帳の外どころか蚊帳の外の亡霊では夏の風物詩にしかなるまいが、亡霊としての存在感もなければただ滑稽なだけである。ほんとうにやることなすことすべてが噴飯もので、これもちんけなお笑い芸人たちを「食い尽くした」効果なのかとさえ思われる。

                                                                                                      6/16

〇「モリカケ問題」を「小さな問題」、「いつまでやっているだ」などと言っている者たちには明日は閉ざされている。少なくとも民主主義を育てる気のない者たちであることは確かである。反民主主義、全体主義の道筋を作り上げることに躍起となっている者たちの口車に乗らないことだ。

                            6/15

〇チャンスをものにできない者とは、やはりものが正確には見えていない者ともいえる。「一瞬間」の判断ですべてが決まることも多い。「好機」の「後頭部」にはつかもうと思っても髪はないので引き戻せないというのは有名な話でもある。確かに一寸先のことも仮定であるが、「仮定のことについては何も申し上げられない」という政府がどうやって来年度の予算を組むのかいつも不思議に思うのである。仮定は飽くまで仮定でそれ以上ではないが、そのすべてを基に状況分析しつつ限られた時間の中で、あるいは一瞬間の内に「判断」できなくては「その役割」はないに等しい。現状がすべてを物語っているではないか。それについて今でも「難くせ」をつけている者たちがいるというが、それは自らの無能をわざわざ見せつけているだけであろう。愚か過ぎるのである。あらゆる結果はすでに出ている。言って見れば、「無能な者」が「我欲」のために「全体主義の亡霊」に身を売り渡した結果でもある。その亡霊もやがて面妖な時の中で居場所を見失い消え去るしかあるまいが、しかし、これ程までにわが身が見えぬ者たちとはやはり「無残な亡者」としかいいようがない。それは「時」が消し去る人々でもある。もうすでに下半身は消えかかっているが。

 

 〇1972年の日中共同声明の時の田中角栄しかり、今回の米朝会談のトランプしかり、これを歴史の皮肉というのである。その直前まで当人にとってはまったく縁もゆかりもない事象が突如歴史的な事柄となってしまうのである。歴史のダイナミズムは底なしで、賢しら人の頭とは無関係なのである。それにしても、日本の存在感の軽さは象徴的である。

                                                                                                          6/13

後日、これまた案の定「大新聞」は米朝首脳会談」について「期限、具体策に触れず」、「具体策示さず」、「検証なき半島非核化」、「時期、検証先送り」等々、こんなことしか言えないから恐れ入る。テレビなども然り。もっとも政府、大手企業、軍産複合体の「代弁者」としてもっともらしい「事実」、「真実」らしきことしか言えない「広報」として見ればこの程度であろう。極めてライトである。そもそも「大新聞」などが踏み込んだ記事、あるいは庶民に向けた庶民のための記事など書ける訳もないのである。構造的にもそれは不可能で、基本的にはいつまで経っても「大本営発表」である。だから、「大新聞」の記事はすべて判読以上のものを要するのである。現在では「穿ち過ぎ」くらいが丁度よいのが実情である。彼らの言うことをそのまま受け入れているようでは「大本営発表」に戦前戦中の「民」のように死の舞踏を繰り返すだけであろう。何に対してもクリティカルな精神は不可欠。

 

 

〇新幹線車内の暴漢の部屋にあったという「罪と罰」、「楢山節考」などの本、「罪と罰」のラスコーリニコフが斧で老女を殺害したことと、この暴漢が斧で犠牲者を死に至らしめたことと「因縁めいた話」であるなどと書かれていたが、凶器が斧であったというだけの話で、ラスコーリニコフとこの暴漢とはまったく異質どころか、比較の対象にもならず無関係であろう。この暴漢もこれを書いた者もほんとうには本を読んではいないことがよくわかる。ジャーナリズムなどはいつの時代もこの程度なのである。実のところは、この暴漢の頭も、ジャーナリズムもライトノベルなのである。さらに言えば、ライト(軽るさ)に追い込んでいるのは誰なのか?

                               6/12

 

〇中川淳一郎という御仁が、東大全共闘の本を紹介しながら、学生運動については我々の世代(1973年生まれの選者の世代)からすれば「何のためにやっていたの?」としか見えない珍行動なのだが云々とあった。「珍行動」という表現、これでこの中川という人間のスタンス、全貌がすべて浮かび上がってきた。要するに、コアな領域の欠如、売文業者特有の不誠実な軽薄さが透けて見えてくるのである。実際、「著書」なども時代の売れ線狙いのものばかりである。私はこういう人間を信用しない。生きやすい「軽さ」、それは商人的な「軽さ」でもある。商人的「軽さ」の延長線上には武器商人もいるのである。ここからは選者とは少し離れるが、一見、ドライでクールな「商い人」の横顔には死の商人という面が必然的にそなわっているのである。何のことはない「背に腹はかえられぬ」というだけのことを大層に言い、体裁を整えているだけともいえる。

                                                                                                2018    6/9

〇ライトノベルにライトドラマ、頭は限りなくライトに、体はヘビーに。最近、異様に肥え太った者たちが多いようにも思われるのもこのせいか。これも異状であろう。そうかと言って、頭もライト、体もライトではただ流されるだけで本当の意味で人生の味わいもなかろう。すべてがライトで、騙し、すり替え、目くらまし、脅迫、裏切り、殺意、殺人さえいとも簡単に行われ、ライトに売れれば何でもありのとても「人間」の所業とは言い難い者たちの増殖は押さえなければなるまいが、ライトに染まった者たちはやがて「共食い」するのが常道である。言語がライトに単純化された思考回路には、展開する余地どころか自滅収縮回路しか残らないからである。

 

〇先日、某タブロイド紙で倉本聰がタケシについて、「人間としても、俳優としても全く認めない」と言っていたが私もほぼ同一見解である。最近のニュースショー(TBS系「新・情報7days)のタケシにしても何でいるのかも不明どころか、神経症気味のハラ軍曹(戦場のメリークリスマス)がそのまま喋っているようにしか見えないのである。タケシについては以前にも大島渚監督との関係も含め取り上げたが、ハラ軍曹=タケシそのもので、そこでは「演技」云々というものが成り立たないのである。そこには大島の慧眼が見えるだけで、タケシ本人も気が付かない、認めたくない本質がそのままさらけだされているのである。「万葉集」を得意げに「マンバシュウ」と言ってのけてもわからないような者が、日本精神の信奉者と思い込まされてる旧帝国陸軍の下士官の愚かしい様相が生々しいまでにその映画にも表れていた。タケシは今なお「ハラ軍曹」で、おそらく死ぬまで「ハラ軍曹」であろう。それ以上でもそれ以下のものでもない。わかりやすく言えば、エンジンの主要パーツが同一なのである。それ以外のマスメディアの皮相現象の「もてあそび」についてはまったく興味はない。

                                                                                                                   6/7

 

〇これもまた言葉に酔ったみじめな最期である。「紀州のドンファン」、何のことはない紀州の女たらし、好色漢といったところである。「ネタ」も「結論」もわかり切っていて、陳腐過ぎて三文小説にもならない話である。金の使い道を知らない愚かな凡夫の哀れな末路。敢えて言い添えれば、ドン・ファンはこのような凡夫ではないことだけは確かである。

 

〇夫婦そろって、ヘラヘラ。何を聞かれても、ヘラヘラとああ言えば、こう言うが、とんでもないすり替えをヘラヘラと繰り返すばかりで、聞く方が馬鹿を見るだけだがそうかといって放置できない厄介な存在だから困ったものである。たとえ人を殺してもヘラヘラと真顔でヘラヘラと言うだけだろう。「共感」も「共有」もできない世界の「住人」である。すべてが「表皮」なのである。「表皮人間」などが本当にいたのである。シニフィアン(言語の音声面)がシニフィエ(言語の意味内容)を侵食しながら覆いつくし、結局自分でも何を言っているのかやっているのか不鮮明なまま表皮から表皮が剥離していくように進行していくだけである。要するに、彼らにとって実質的には「歴史」などは存在しないのである。ただ時空を漂う表皮のようなものである。

 おそらく、戦場にもヘラヘラと手をつないで現れる夫婦であろう。起こっていることも明確に認知できないのである。そうでなければいの一番に逃げ出す者たちである。

 

〇日大の理事長も逃げ回っているようだが、それにはそれだけの理由があるからである。48年前、彼もまた日大の「弾圧暴力装置」として日大の学生たちに暴力を振るった体育会系の一員であろう。それが日大の中枢に伸し上がっているのであるからどのような組織(大学)であるは多くを語る必要もないのである。日大アメフトの不祥事などは氷山の一角、たとえ風化に任せたところで根本的な原因が取り除かれない限り繰り返される。この「日大アメフト事件」も今までの「悪行」の結果でしかない。やがて、これについても詳細な内容が出てくるであろう。

                          2018 6/5

追記:日大が立ち上げた「第三者委員会」とはどんなメンバーなのか?「身内」が作った第三者委員会などに何ができるというのか?

この日大理事長が東京オリンピックにも関係しているのである。そうでなくとも東京五輪には拭い去れないダークな面が多過ぎるのである。浮かれ騒いでばかりもいられまい。いっそ中止になればよいと思っているのは私だけではあるまい。選手は東京五輪にこだわる必要はまったくない、それ以外にも世界的にいくらでも活躍の場はある。

〇どんな時でも「文句を言わず」、「不平不満を言わず」、「批判がましいこと」も言わず、「前向きに笑って楽しく過ごしましょう」、「それが嫌われないこと」そして、「それが健康の秘訣」などとしたり顔で言うのを聞くと、これでは「自我」、「個」などは育つはずもなく、一見理想的生き方のように思われるがそれは「人間」の範疇さえ逸脱することにもなりかねないから恐ろしい。全体としては極めて不自然、不健康でさえある。それがわからなければ「例の人」の思う壺に入るより仕方あるまい。

 

〇昨今の日本「礼賛」番組をみていると、SNSなどの「承認願望」思い浮かべる。余程、自身がないか、他者の視座(この場合は主に外国人)の中で自己を再認識したいのかとも思われるが、それは自己を認識するというようなレベルではなく、単なる怠惰な自己満足に近い。だから、これもまた自己展開の余地がまったくないのである。

                              6/3

 

〇これもまた案の定、大阪地検特捜部は偽造公文書作成の疑い告発されていた前国税庁長官・佐川宣寿を不起訴とする。大阪地検特捜部はこれでまたその在り方を自己証明したようなものである。このような動きそのもの中に内部崩壊させるような不可抗力的要因を必然的に作り出している。特捜が内閣府に取り込まれていることは国会の答弁でもよくわかる。そもそもこの事案は政治的な事案ではないにもかかわらず、政治的に考慮した、政治介入した特捜の在り方は大いに問題である。これは誰が見ても公文書の偽造行為である。公文書を書き換える、それは記録を、歴史を国史を書き換えることでもある。それは今に始まったことでもないが、そのような行為自体があったことは否定できないと同時に、許されざる行為である。そのような行為を不起訴とする特捜の「判決」は三権分立の民主主義国家とは名ばかりであることの証左でもある。要するに、一党をダラダラと継続させてしまうことからくる弊害ということに尽きる。何もかもがダラダラである。牛のよだれような様態を喜ぶのは商人だけであろう。

                               5/31

 

〇100歳になったという元首相の政治家が出てきて曰く「生涯政治家」。いつまでもダラダラと生き恥をさらすよりさっさと消え去るがよかろう。戦時中においても然り、このような悪しき状態にしてしまった責任をどうやって取るというのか?「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と言って潔く去ったマッカーサーと比べてやはり質的にも見劣りがする。何なのであろうか?このだらしなさ。見苦しいの一言。それともやはりここは不思議の国の認知症の国なのか。

                              5/28

 

〇「そんな小さなこと」より「大きな問題」が山積しているなどというもっともらしい口車に決して乗らぬことである。小さなことも満足にできない者たちが大きなことなど対処できるはずもないのである。現にその連続ではないか。一般国民は生活に根差した是々非々で政治家を選べばよいだけである。特定の政党の支持者になり続けることは危険でさえある。それが今回の結果でもある。実際に生活は徐々に確実に壊されている。国民生活も無視して天下国家を論じているような者などは偽物、無用の長物のような類で、ろくなことはできまい。その実例も枚挙にいとまがない。

                              5/27

 

〇日大アメフト監督と選手の言葉の受け取り方の乖離などについて言っているものもあるが、もしそうであるならまったく信頼関係が成立していないのであろう。何のために一日何時間も練習しているのか?すでにこの経過を見続けている「視聴者全員」は明解な裁断を下していることだろう。白を切り通せると思っている者たちの存在そのものに対する否定である。

 

〇日大アメフトの宮川君、あなたの潔さは立派。それに引き換え日大の偉そうな「大人」たちの醜さ、だらしなさ、情けなさ、ここまで人は堕ちるのである。それは今までにも国会で嫌と言うほど見せつけられたことでもあるが、これは「大人」の責任でもある。結果的に「若い芽をつぶしている」のである。彼らは自らの保身と欲望以外に眼中にないのでどんなことでもする。彼らの美辞麗句、ウソ、世迷言に踊らされていたらいつしか心はボロボロ、身は八つ裂きということになる。

 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、宮川君は日大アメフトなどにこだわる必要はまったくない。捨てるべし。君のような人間はいくらでも道は開ける。「老いたるは皆かしこかり この国に身を殺すもの すべて若人」ということもある、若人を利用するずる賢い者たちに立ち向かうにはそれなりの覚悟が必要である。そうでないとどこまでもいいように付け込まれると同時に展開の余地はことごとくつぶされていく。

追記:私が社長だったら、宮川君は無試験で入社させたい人物でもある。それにしても学長、理事長何だこれは?これほどまでにひどくなっているとは。これは大学の体すら成していない。しかし、黙って放置すればこのような大学が「お墨付き」の大学になって増殖するのである。大学無償化などでこのような大学に入れられたら何をされても何も言えずなされるままということにもなるのである。言ってしまえば、全体主義国家にとって都合の良い「細胞」を育成することはできても「個」の充実ということからは乖離するばかりだということである。そして、「細胞」とは飽くまで「非人間」であることを明確に押さえておく必要がある。

                                5/25

 

〇ボルトンはやがて解任であろう。イェール大学を最優秀で卒業してもこの程度なのである。「リビア方式」などと言うことを現状で言えてしまう神経。歴史は絶対一回性、どのような緻密な頭脳にとっても大なり小なり「賭け」なのである。メリットばかりを言う者、それ以外にないようなことを言う者はすべて欺瞞。「現実主義者」が「現実」を見据えているとは限らないのである。

                                5/20

〇岸井成格は「反骨のジャーナリスト」ではない。ジャーナリストとして当然のことをやり続けただけである。彼のことを「反骨のジャーナリスト」などと言う類型的な言葉でまとめてしまうマスメディアにはまともなジャーナリストがいないという証左でもある。だから死の直前、彼に「だらしなくなちゃったな、みんな」と言わせてしまうのである。

                                2018 5/19       

 〇米朝首脳会議延期、「駆け引き」云々ということが枕詞、序詞のように使われているが、政治、取り分け外交領域で「駆け引き」のないことなど皆無であろう。むしろ、いかに「駆け引き」をするかが外交手腕で、政治的次元で「本質的のもの」などあろうはずもなく、いかにもっともらしく取り繕ってもその時々で変化する皮相的なものでしかない。改めて「ショー」だ、「パフォーマンス」などとそれ以外にさも重要なものがあるかの如く気の利いたことを言ったつもりなっているが、そもそも政治一般が「効果」である以上、それ以上ではあるまい。世界の片隅で、あるいは自国でいつまでもつまらん百害あって一利なしの三流のショー、パフォーマンス、ポチ外交をやっているのが取りも直さず自国の首相であるという明確な認識なくしては今後も一歩も事は進まないであろう。

 しかし、秋田犬の「マサル」まで政治利用する無節制さである。節度云々以前の問題で、ここまで来るとやはり精神疾患の問題である。思い込み以外には何もない空疎な狂者の行先は見えている。集団ヒステリーを起こして崖から群れを成して落ちることだけは避けねばなるまい。

 自画自賛になってしまうが、正直に言えば、このサイトで取り上げ問題にしたこと、書いてきたことについては大方的中してしているか、先取りしていて怖いくらいである。したがって、マスメディア等に出てきた時には驚く内容はほとんどないといってもよい。すべてが再確認の域を出ないということである。

 

                                5/17

 

 

 

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