117.つれづれに一言で片付ければ (5)ー19件ー

〇「人はエネルギーだ」こんなCMがあったが、そう、彼らにとって人はエネルギーであって「人間」ではないのであろう。何気ないコピーに隠された「前意識」。

〇「弾道ミサイル落下時の行動」という政府広報、タイミングも段取りも狂ったな、それが正直なところであろう。内容は危機をあおるだけの具体性もない、まったく無意味なもの。これを大まじめにやっているとしたら笑止の沙汰、究極のオメデタサである。これでは原発事故が起きても「机の下にかくれましょう」程度のことしかできまい。

〇「信なくば立たず」、ならば、立つな! Go away!  Adieu pour toujours! A morbid liar!

 

〇いつから怪しげな外国人タレントに変貌したのか、もともとそうであったのかは定かではないと最近思い出されるのがのがケント・ギルバートという弁護士タレントである。この手のパターンでは橋下がすぐに浮かび、また選挙前の売名かとも思われてしまうが、彼はアメリカ国籍である。2015年の「アパ日本再興財団」(例のアパホテル)主催の第8回懸賞論文で受賞している。参考までに、第一回の受賞論文があの田母神俊雄である。ケント・ギルバートの妙に親日的な、日本人を理解しているような、その国民性まで知り尽くしたかのような言説に違和感を覚え、少しチェックしてみるとやはり日本文化についても皮相的で、言っていることも継ぎ接ぎだらけである。表に出てくるタイプ典型の浅薄さを持っている。例えば、「自虐史観」を刷り込まれた「無自覚左翼」、「プロパガンダ」などの頻出使用語彙をみても日本会議の影がちらつく。書いている内容も「日本会議」が喜びそうなことばかりである。因みに、この「雄弁な」タレントも年と共に顔つきが悪くなってきている。彼の言動は何か共和党の「下部組織」でもある「突撃部隊」・「ティーパティー」を彷彿とさせるものがある。彼の「親日的感情」、意識は「アメリカ合衆国日本州」に居住しているアメリカ人というところであろう。「日本会議」なども元を正せばアメリカのタカ派に行き着くのかもしれない。

                                  2017 6/21

 

〇無限なものは二つあり、それは宇宙と人間の愚かさであるという。昨今では人間の愚かさばかりが無限に膨張しているのではないかとさえ思える。

                                 2017 6/19

〇国民の当然の疑問、批判に対して、「ゲスの勘ぐり」、「難癖をつける」などと言っている「政権」、これは一体何だ?政権の資格などまったくない。責任政党などとはおこがましい。与太郎の与太話などいつまでも聞いていても仕方ないのである。彼らはやはり何をどのように言ってみてもゲスそのものなのであろう。ゲスの言い訳などに聞く耳を持つ必要はまったくない。ゲスは必ず裏切るからゲスなのである。そして、自分がやってきた「悪事」をすぐに他人に転嫁する。実際、「印象操作」なども自分が配下のマスメディアを使ってしてきたことであろう。言うことなすことすべて信用ができないという世にも珍しい私利私欲だけの組織である。

                                                                                                                                         ー6/18

〇あるTwitterに「大多数の国民は苦痛を苦痛と考えない、これが与えられた世の中だと思うのだ。」というのがあったが、実はそれが「賢い方法」であるとどこかで思っているからそうなのである。しかし、実情はそれがやがて身を亡ぼす最悪の怠惰な選択ということになることに気付かないだけのことなのである。その「賢い方法」自体が、詐欺師にとっても、独裁者にとってもこの上なく好都合なのである。

                                                                                                                                               

〇「生き方」、「死に方」まで他人のアドバイスを受け、挙句の果てに「働き方」まで他人の指図を受けてよしとする人々とは、一体いつ自分の頭でものを考えるのか、誰の人生なのかとも思われる。

                                                                                                                                                ー6/17

〇驚くことに、いまだに現政権支持について「他に適当な人がいないから」などと答える若者がいるのである。確かに以前から「ころころ政権が変わるのはいかがなものか?」、「ねじれ国会」などと民主主義の根幹の理解が危ぶまれるようなことをしたり顔でもっともらしく吹聴してきたのもマスメディアである。政府広報のようなマスメディアの言っていることを真に受け自分の考えのように言っているだけではやはり相手の思うつぼである。要するに完全なるマインドコントロールである。もう少し自分の頭で捉え直しをしないと、やがて真綿で首を締められることになる。

 

〇安倍政権と心中するご一同様、もはや浮かぶ瀬は決して訪れないだろう。それだけ各自の名前が各場面で刻まれてしまっているのである。それはあたかも戦場跡のごとくに多くの者たちの頭の中に烙印されてしまったということである。「印象操作」ごときで払拭できるシロモノではないのである。それでも、一人、印象「踊り」を繰り返す者の滑稽無残な言動、それはどう見ても唾棄すべき対象にしか見えないであろう。政権ベッタリのテレビ幇間(ほうかん)、そのコメントを真に受ける者、「正論」を振りまく政権の「パシリ」、四六時中テレビのハリツキ・ポッターのような者以外はそのように思っているはずである。

 ねた割れし者たちの「和音」とは常にかくありぬべし。

 

〇「国際政治学者」という「テレビ芸人」から「政治家」になった舛添要一が「都知事失格」という本を出し、またぞろ何やら言い始めている。言いたいこと恨みつらみもあるであろうが、それはすべて最初からわかっていたこと。体制内入らなければ何もできないなどと自民党に入った時点で彼は終わっていた。「体制内変革」などは幻想、可能不可能などという次元ではない。「自民党をぶっ壊す」に始まった小泉「劇場」も単なる自民党内の派閥争いをそのように称したに過ぎなかった。やはり、どこかで絡め取られているのである。舛添もよく評価してミイラ取りがミイラになるがごとくに立ち去らざるをえなくなくなったというのが実情であろう。その間に知り合った者たちの虚像と実像悲喜こもごもの人間主義的なこと、あるいは事象の細部にわたる弁解「説明」をしてもそれほどの意味はない。マスメディアの愚蒙な死点、衆愚政治に乗じて登場し、失敗した者が今度は恨みつらみも取り混ぜてマスメディア、衆愚政治を批判する。批判自体はよいとしても、それに隠れた別の意図がすでに見え隠れしている。まだ立ち位置が「本心」などを口にする状態ではない。またぞろ自民党に返り咲くつもりかと聞きたくなるような動きでもある。実のところ、二股膏薬的なものしか感じられないのである。このようなスタンスでは、機を見るに敏なだけだった石原、何もない押しの強いだけの猪瀬と同様である。要するに根幹部分のスタンスに問題があるのである。確かに青島、石原、猪瀬、舛添を選んだ者たちとは衆愚なのである。もちろん彼らだけではなく、現状は衆愚政治の典型の域にある。

 

〇つくづく恥知らずな政権である。言葉が出るそばから締まりもなく溶け出している。頭の中も同様、これからも何とでも言うであろう。聞くだけ無駄で聞きたくもないが、何気なく耳に入ってくるから困ったものである。これも手の内なのであろう。 勇ましいこと、格好いいこと、もっともらしいウソなど100%口から出まかせ。100%というのも珍しい。ここまで白を切るというのも狂気である。やはりまともではない。そのまともではない人間に「目をふさがれ」身を託す人々とは、これもまたまともではない。何にもないから「印象作り」に専念するのであるが、何を血迷っているのか、他者の質問もすべて「印象作り」に見えるようだ。完全に狂っている。世界が不穏な空気を感じるのも当然である。

                               2017 6/1ー

〇漱石を引用するまでもなく、愚か者ほど大口をたたくものである。義もない、覚悟もない、徳もないからヘラヘラとウソをつき続けるしかないとも思えるが、公人私人も不明で、はた迷惑も甚だしい。

 

〇トランプも安倍もツイッターが好きである。この点も共通点の一つである。ツイッターは単なる無責任な「つぶやき」である。そんなものはいちいち取り上げるまでもなく、無視すればよいのである。それをそのまま信じるなどは愚の骨頂だが、二股膏薬の彼らのことであるからそこには常に「計算」がある。忖度させて思う方向に持っていくことなどは日常茶飯事であることが昨今の事情からもわかる。

 

 〇「アゴラ」とやらの池田信夫、東電原発グループをバックにして金回りもいいのであろう。これも「御用」の類、「アゴラ」というのは「御用の広場」と見た方が適当である。因みに、「株式会社アゴラ研究所」と古代ギリシャのアゴラとはその発生と展開において天と地ほどの違いがある。

 しかし、「アゴラ」が発信している内容、これで納得する者がいるとは驚きでもある。ここで書いている人間たちも、どれもこれも「金主」の顔色をうかがっているようなものばかりで一体「何を」勉強してきたのかと言いたくなる。論客?詭弁で飯を食う人々の集まりであろう。それも「金主」のお気に入りのソフィストたちである。言っていること一つ一つを具体的につぶしたくもなってくるが、長くなるのでここではやめる。それに彼らのような人種と付き合っている暇もない。こんなろくな世界観もない「専門家」と称される者たちに丸め込まれているようではそれこそ「毒マンジュウ」を食わされるかストロンチューム90を飲むことにもなろう。

 

〇山口敬之(元TBSワシントン支局長)がジャーナリストなどとは冗談も休み休み言ってもらいたいものである。「最も安倍寄りのジャーナリスト」と言われているそうだが、もともと政府のプロパガンダくらいしかできない義もない、覚悟もできないだらしない男である。顔つきにすべてが現れている。走狗の典型である。最近の「強姦罪」問題、この男なら当然であろう。これが初めてではあるまい、手口が慣れ過ぎている。おそらくアルコールに睡眠薬でもいれたのであろう。この男には被害者の女性ほどの覚悟もない。いざとなれば「お力」にすがりつく、ここでもまた安倍の影がちらついている。こんなことをいつまで続けているつもりか。何もかも「元凶」は一つ、明々白々である。言ってみれば彼の言っている一部始終など「詐欺師」の補完、脚色程度のこと、後は金の流れを見れば一目瞭然であろう。この男の本をどこが多く引き取っているのか。「例の怪しげな組織」も当然からんでいることは否定するほうが困難である。

 TBSを辞めた理由は?辞めたのか辞めさせられたのか?今頃はこの女性被害者の身元調査で付け入る箇所でもさがしているのであろう。そして、また読売紙上で発表か?どちらにしても「ああ言えばこう言う」見苦しいやからである。恥を知らぬ者は、日本人とは言わないのである。

 彼はフリーのジャーナリストでも何でもない。安倍政権のプロパガンダのプロパーに過ぎない。味噌もクソも一緒ではフリーのジャーナリストも浮かばれまい。

 

〇肝心なことになると「記憶にありません」、この国には詐欺師と認知症と空気を読む俗物しかいないのか。

 

〇タケシが、前川喜平前文科次官について「前川さんも天下る先は風俗会社しかないな」と言う。タケシは気の利いたことを言っているつもりなのであろうが、ほんとうに喜ぶのも笑えるのも官邸くらいなものであろう。要するに、何もわかっていないのである。世間の目が行きそうなところをただいじくり回しているだけ。タケシ以下すべてこの調子である。笑いの質も推して知るべし。

「 知性」皆無の才人気取りのアホの「感性」が劣化し腐臭を放ち始めるとこのようになるのである。よく見届けるべし。 

 

〇茂木健一郎が、「日本のお笑い」について言ったことは大方のところ間違いではない。以前、私もそのことについてはこのサイトで取り上げた。人間のいるところ「笑いの世界」は死滅することはないが、その質が問題となる。現状では日本の「お笑い」、「お笑い芸人」というコンセプト自体がもう意味をなさないのである。わかりやすい一例を出せば「お笑い芸人」の顔が出てくるだけで不愉快になる人々が実際に多くなっているということは、もはや「お笑い」をする「芸人」ではない「お笑い芸人」になってしまっているということでもある。人を笑わせることを目的とするなら「漫才」、「落語」などの芸そのものが問われるものがあるが、「お笑い芸人」とはもはやそこからほど遠く、人を笑わせるのではなく自分が笑って「客いじり」のようなことばかりをして間を持たせているだけということである。それは、ただそれだけのことに親しみを感じる「哀れな者」たちか、余程鈍感な偽物しか知らない者たちしか興味を持たない内容になっているということである。そのような兆候が至る所に現れているのである。それは一過性でしかないものの当然の成り行きでもあるが、衰退を余儀なくされているということである。

                            2017 5/23ー5/30

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