あけ烏氏とは高円寺のとある酒場で出会った。
私には好きな俳句がたくさんある。あけ烏氏が師事していた石田波郷の句もその内の一つであるが、私は俳句を「やらない」。私が俳句という存在を知ったのは、父が俳句仲間と石川桂郎という俳人の家に行く時に一緒に連れて行かれたのが最初である。確か、小学校3年の時である。その同人(俳句界では結社という)の周辺には、ねじめ正一の父親もいたはずである。石川桂郎が家に遊びに来て、泥酔しながら短冊に書いたという俳句が父のお気に入りだったようだ。当時、石川桂郎は「剃刀日記」という小説で芥川賞にもノミネートされていた。父はと言えば、フランス文学者の桑原武夫の「第二芸術論」以後俳句からは遠ざかってしまったが、それでも時折作っていたのは覚えている。わたしが俳句を「やらない」のはどうもそこら辺が基因しているのだろう。
※1940年前後、近隣には三木清(哲学者)、平林たえ子(作家)が住んでいた。父と酒を飲み交わした作家は上記の石川桂郎の他に、金子洋文(作家、劇作家)までは聞いていたが、その後の父と彼らとの交流については知らない。(小林多喜二が「蟹工船」を書き、プロレタリア文学の旗手となり、それを土方与志が「北緯50度以北」(脚色 高田保、北村小松)という題で帝劇で上演したのはこの10年程前である。)その後20年以上経って、父が私に読めと言って手渡した本は、当時の父の愛読書(山本周五郎、司馬遼太郎、松本清張etc)でもなく、俳句の本でもなくカントの「人間学」であった。私が高校1年の時である。因みに、「弁証法的発展」ということを聞かされたのは、私が父の懐の中にいた時である。父が水で濡らした指でテーブルに図解するのを真剣になって聞いていたことを今でも思い出す。
その後、私は時折呟くように、スナップ写真のように、スケッチのように、その時々の印象を忘れないために俳句を綴ってはいたが、俳人と称される人々とはまったく縁がなかったと言うより、敢えて近づこうとはしなかった。だから、あけ烏氏と出会い、これほど語り、飲み明かしたというのは私にとっては椿事であり、そしてこれが最初にして最後であろうと思う。
春の山 父を埋めしか 魚を埋めしか あけ烏
この句は私の作・演出の芝居を観に来てくれた後、作られた句である。この時、私はあけ烏氏がやはりすごい感性の持ち主だと改めて思った。おそらく、誰一人としてこのレベルで私の芝居を観た観客はいないだろう。
翌年、病室にはもう起きられなくなったあけ烏氏がいた。もう来年の餅は食べられないことを本人も知ってはいたが、病状はいいと言う。強い抗がん剤だが、医者もびっくりする位痛みもなく、心地よいと言う。そんなはずはないと思ったが、後日聞けば、やはりすでにその時は全身にがんが転移して痛み止めを投与されていたらしい。
あけ烏氏は原稿用紙をどかしながら上体をなんとか起こそうとした。そして、私の持って行った果物の中から桃を選んだ。私は桃の皮を剥き、一口ずつ切って彼の口に桃を入れて上げた。白桃を ウマシウマシと あけ烏、そんな言葉が私の中をゆるやかに横切った。それが、私の見たあけ烏氏の最期である。
俳諧は さびしや薬缶の 氷水 あけ烏
薬缶の中で溶けかかった氷の音が聞こえてくる。そして、その手応えでよしとする姿勢が見える。
それは巷間に身を置く一求道者の死である。
2005年 某日
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