147.どのような場面でもそれは現れる

どのような場面であろうと、「哲学者」を見過ぎ世過ぎとしている以上、どのような言動にせよ、そこには思念の根幹がさりげなく現れ、それが取沙汰されて、問題視されても仕方ないのである。萱野俊人という津田塾大学の教授と名越康文という精神科医のやり取りの中で、名越「欧州の風土や文化を肌で感じた先生に伺いたいのですが、哲学の観点から、日本人に最も欠けているものは何だと思いますか」

萱野「道徳にこだわり過ぎる傾向があるところでしょうか。たとえば、国家は暴力の上に成り立っていると言うとすぐさま糾弾する人が多いのですが、国家が正当な暴力を独占するメリットについて考える必要はあると思っています。」

 何をしたり顔して言っているのかと思われるような内容である。要するに、日本ではこの程度の「哲学者」と「精神科医」でやっていけるのである。

哲学の観点から、日本人に決定的に欠けているのは「知」である。「道徳にこだわり過ぎる傾向がある」?何を言っているのか?どこを見ているのか?何を感じているのか?さらには、「国家の暴力」云々、「正当な暴力を独占するメリット」、「『正当』な暴力」とは?、「『独占する』メリット」」とは?、それをどのように考え得るのか?一つ一つ何の吟味も検証もなされず垂れ流される言説、何となく言っていることを気分でわかってほしいということか?それにしてもお粗末すぎる。パリ第10大学の哲学のドクター論文はどういう内容だったのか?これではとてもエコールノルマルシュペリュールのレベルの哲学論文ではないということはわかる。

 

 森有正ですら、フランスに行ってからはエッセーは書けても、哲学論文は書けなくなったということがある。それがどういうことなのかわかる?わからなければオメデタイのである。

                                 2019 11/6

追記:1960年代ー1970年代にも加藤泰三という社会学者、評論家が、若者受けする(若者と言っても、知的レベルは中高生レベル)アフォリズムのような本を書いていたことを思い出した。そのアフォリズムも言葉の遣われ方が安易過ぎて意味不明。これで何かわかった気になっている者とはどのような者かと思ったことなども思い出された。

 

 マスメディアに頻繁に出てくる「学者」、「評論家」、「作家」諸氏の多くは、このレベルなのでまったく関心はないが、つい目に入ってくるとやはりチェックせざるを得なくなるのである。

 教育事情は危うく、大手出版社の瓦解と同時に、そこかしこには怪しげな出版社である。単なる「売文業者」の口車にはやはり注意が必要であろう。

 

 

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