138.「死ねば宇宙の塵芥」(2)

 近藤誠氏は、20数年前と根本的には変わっていない。そして、そこで再確認できたことや、さらに曽野綾子氏の生き方に共感する方向で示された医師としての死生観の具体的提示は様々な意味で参考となる。曽野綾子氏は、幼少の頃から常に死を考えていたというクリスチャンでもあるが、生き方そのものを問い続ける姿勢から自ずと出てくる「覚悟」から「老いて孤独を楽しめ」に至る過程は、ただ「流される」だけの者には到底たどり着けないところでもあろう。両氏は平易な言葉で語り合ってはいるが「自由で、自立した潔い老後」などというものはそうやすやすと得られるものではない。要するに、自由で、自立した人生を一歩も歩んだことがない者が老後を迎えて突然六十、八十の手習いのごとくに習得できるものでもあるまいということである。「極上の孤独」などという表現で表されている内容でも同様である。もし「極上なひと時」程度のことを「孤独」に置き換えているのならやはり問題であろう。「孤独」を安易に使ってはならないと思われる。私自身は、孤独については「僕は全身全霊をかけて孤独を呪う。全身全霊をかけるが故に、又、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものはないのである。」という作家と同様のとらえ方をしているからである。そして、バイブルにも魂の孤独を知るものは幸福であると記されてあるようだが、しかし、「魂の孤独など知らない方が幸福である」というのも一面の真相ではあるということを押さえておく必要はあろうと思われる。

 霊魂などというものも、あると言えばある、ないと言えばない、あると言い切るのも傲慢、ないと言い切るのも傲慢、ここで言う傲慢とは人間本来の状態に無知という意味で使っている。「死ねば宇宙の塵芥」とは、人知では語り得ぬもの、例えば「あの世」などについていつまでも時間を割くより今ある生を精一杯生きよ、そして、それがそのままその時が来たら潔く去ることにつながるといっているのである。

                                       2018 9/5

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