104.ヒト,「種」としての寿命

 人間の寿命などにはそれほどの興味も関心もない。要するに老少不定で考えても埒の明く問題ではないからである。むしろ、ヒトの「種」としての寿命のようなものを考えてしまう。それは、「人類の危機」などというある程度の距離を置いた範疇ではとても収まりきれるものではない。人間の手には負えない、すなわち後始末もできない、あたかも悪魔が人間の欲望の代償として与えたような極限の負を持つ「核エネルギー」に行き着いた時にすでにそれは具体的に始まり、そして常に「経済」に翻弄される危うい者たちによって実のところ想定内、外などという概念規定さえもままならぬまま突き進んでいることからきているのであろう。「核エネルギー」も「経済」も共に人間の肥大化した脳髄から生み出されたものである。そして、この脳髄の「力」だけを信じ切って強引に「先に突き進む」のであれば、またそれによってしか解決できないのであれば、ヒトの「種」としての寿命が尽きる時はそう先のことではあるまい。そして、「種」とは突然消え去るのである。ヒトは自ら作り出したものよって滅ぶ、ヒトらしい最期と言えば言えなくもない。

 最近では、ノンサピエンスヒト科ヒト属はよく見かけるが「人間」に会うことは稀になったこともその一つの兆候なのであろうか。ノンサピエンスヒト科ヒト属がそのあるべき姿ならば、人類の英知など入り込む隙はない。ホモサピエンスはサピエンスによって栄え、サピエンスそのものによってノンサピエンスに陥り、滅び去ることになるのであろうか。ここまで栄えた「種」がどうしてこのような事態になったのかなどと「考える」新たな「種」が現れるかどうかは知る由もないが、ヒト科ヒト属の消滅の仕方としては納得できてしまうから怖い。

 

                                      2016 9/3

 追記:本心を言えば、ヒト科ヒト属の消滅について怖いという感じは私にはない。それは当然であろうと思われるからである。実に愚かである。

 

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