「ドストエフスキーにハマり人生を狂わされました」という某国立女子大名誉教授。東大文一入学時、何となく官僚にでもなるのかと思っていたのが阿部次郎の「三太郎の日記」でつまづき、読書三昧の日々、さらにドストエフスキーで根底から「価値観をひっくり返され」、「もっと物事の本質を考えないとダメだ。そう思うようになって哲学に傾斜し、人生が狂ってしまったんです。」とおっしゃるこの教授、それ以後ハイデッカーの「存在と時間」,「『存在するとはどいうことなのか、その答えを見つけるのが哲学だ』と私もその答えを知りたいと思ったのです。」という。しかし、ハイデッガーのアプローチでは求めるものが見つからずウィトゲンシュタインに至ってこの「答え」を得たという。「すべての哲学の問題は質問としてナンセンスで成り立たない云々」ここでいう「すべての哲学」とは「存在論」のことで、要するに、存在論を認識論の地平で捉えようとすること自体の誤謬に気が付いていなかっただけの話なのである。※「我思う故に我あり」とは誰でも「知る」言葉でもあるが、デカルトは後にこの「故に」を訂正している。「思う」という認識論のレベルから「ある」という存在論を導き出すことはできないからである。その逆も同様である。したがって、スピノザではないが「我思い<つつ>我ある」というべきなのである。言語の限界が認識の限界でもある。しかし、この教授に言わせれば「ものごと」の「本質に迫る」「哲学すること」は人生を「狂わせる」ものらしい。挙句の果てに「ドストエフスキー」なんて若いうちから読むもんじゃありませんよ」という。それではいつ読むのかということになるが、あのレベルの長編を読む機会など若い時期を逃したら一生読む機会がないのが大方の人生である。このようなことを平然と言えてしまう神経資質、土台そのものが、「学者」、「研究者」などというより官僚向きというべきか。確かにそういう意味では人生を狂わされたのであろう。「ものごと」を深く考えることなどせず、分相応に軽めに生きれば、人生「狂うこともない」(?)と言っているようなもので、これが文化の担い手の一端に位置するべき者の口からいとも容易く出てしまうのである。結局のところ、軽佻浮薄の時流の後押し役になっていることにも気が付ていないのであろう
しかし、よくこれで今まで自分の「専門領域」で飯を食ってきたなと思う。「狂わされた」と思ったらさっさと大学教授の職を辞して、ウィットゲンシュタインではないが小学校の教師でもしながら「後処理」をすべきであろう。
たとえ、「ドストエフスキーにハマリ人生狂わされました。」が自慢話であろうと、ドストエフスキーへの逆説的誘いであろうとさしたる意味はない。総じて未だしである。
※「cogito ergo sum」(「われ思う故にわれあり」)については2011年6月5日にブログT/Z(184)で取り上げている。カントは「ergo」を不要だとし、デカルト自身も「ergo」の不要性について考えている。導き出せない命題を「導き出して」いる以上、それは「経験的命題」、「自意識」によるものでしかないということなる。
2016 1/24