86.「原発反対」という主張は具体的

 「原発反対」という主張は抽象的だという、またぞろ騒々しいだけの空疎な「ジャーナリスト」田原総一郎の記事である。彼の見解でいまだかつて記憶に残ったもの、説得力をもっていたものはひとつもない。核心部分が皮相的過ぎるのである。変形御用ジャーナリストの一種だからであろう。「変形」というのは常に対峙することもなく縫ってかわすようなスタンスばかりが目に付くからである。 実際、田原は2010年の資源エネルギー庁と青森県の共催の講演会で原発の必要性を説き、日本の原発の技術がいかに優れているかを強調しているのである。このような人物が「政府の原発政策は少なからず問題ありととらえている。」としながらもエネルギー供給の問題、使用済み核燃料の問題、などを取り上げ「各紙とも、原発の展望がわからなくて困惑しているのだろうが、ならば抽象的な「原発反対」の主張ではなく、政府の具体的な戦略を明示することをこそ、いわば社運をかけて強く要求するべきである。」と言う。「政府の具体的な戦略を明示することを要求」してどうするのか?明示できないものを要求してどうするのか?すでに今まで経緯がすべてを物語っているのである。「原発反対」を言うのであれば社運をかけて政府に迫れと言っているのであるが、たとえ迫ったところで何が出て来るというのかということになる。何もないのであるから出てくるはずもないことは明らかなことである。そして政府の恰好のターゲットになるだけなのである。要するに田原は安易に「原発反対」などと言うなと脅しているのである。それはそうであろう田原は原発推進派なのである。これは何も田原だけではないが、このような論調が実に多い。彼らの言っていることこそ抽象的過ぎるのである。検証ベースとなっているデータも経済産業省の「長期エネルギー需給見通し」である。これ自体も検証すべきであるにもかかわらずそこに出ているパーセンテージを「いじって」稼働、廃炉を算定しているのである。それも「しかならないはずである」といった調子である。こんなイイカゲンな言論をうのみにできるのは未成熟成人もしくは思考回路が断線しているかカオス状態の者だけであろう。言っていることの細部にわたって疑問を提示していると簡単に小冊子程度になってしまうのでここら辺でやめるが、よくぞこの程度のことで納得できるものだとあきれ返る。

 今現在、各省庁が明確な第三者機関の精査、検証を経ずして発表したすべてのものに関して信を置くことは極めて危険である。要するに、国の発表は以前にも増してまったく当てにならなくなっているということである。

「原発反対」という主張は具体的である。それを抽象的という主張こそが抽象的なのである。そもそも「後片付け」も事故が起これば手の施しようのないことが明々白々としていることに関して何十年後の廃炉、再稼働、新設などを官僚が割り出した数値を基に云々すること自体何の具体性もなく根拠にもなり得ないのである。田原は原発の必要性を説き、日本の原発技術の優れた点を強調した時点ですでに終わっている。

 

 

 

                                2015 11/6

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