よく散見される「大人の演劇」という何とも不明瞭な言葉は、そのまま分かったような分からないようなコンセプトを作り上げたまま沈潜し続け、やがて腐臭を放ち始める。それは「大人の演劇」という表現を遣っている者自身に「大人」について、「演劇」についての想像力、洞察力が不足しているからである。あるいは自分は「大人」であり、演劇の何たるかを熟知しているという「思い込み」があるのであろう。「演劇」も芸術であるならば「大人の芸術」と言ってもおかしくないはずであるが、そんな内容は存在しようがない。成り立ち得ないものをあたかもあり得るかのごとくに作り上げているのが頻繁に遣われている「大人の演劇」という言葉である。それで何か言い当てているつもりになる、何か分かった気になるとは、何ともオメデタイ話である。「大人の演劇」が、通俗劇の言い換えでしかないというのであれば少しはその指示内容もはっきりするが、通俗劇では収まり切れないような含みをもたせているのか,それとも昨今流行りの同一内容の置換言語の類か。常に「閉塞状態」での「等身大」の人間の行住坐臥、含み笑い、冷笑、失笑、高笑い、笑止、悲嘆、諦観、などなど、「等身大」の「大人の演劇」なるものが内容的に通俗劇の域を出ることはまずあり得ない。敢えて言うまでもなく、ものごとの「核心部分」に触れるシェークスピアにしてもモリエールにしても「等身大」の人物などどこにも登場して来ない。向こう三軒両隣の「そのまま」の人物像を「等身大」という扱いで捉えるのであればやはり「核心部分」不在の通俗劇の域を出ることは決してないだろう。たとえそこに現代的テーマを取り入れたとしても現実「的」な嘆息と諦観の枠内での委縮した「現実」がほの見えるだけである。そんな現実に「我」を見出し得たとしても一体何があるというのか。内容空疎な言葉が持つ厄介なところはその「入り易さ」と浸透性にあり、それは沈潜しながら自己増殖を繰り返し、実体の在り様のない奇妙なものを形作る。
2015 10/8