82.SEALDs(シールズ)の起したうねり

 この「うねり」はもはや反安倍などという範疇を超えている。本然的危機感がそうさせているのである。そしてまた御多分に洩れずかまびすしい有象無象の走狗の群れである。その単なる誹謗中傷としか言いようのない無内容さにはただ呆れ返るばかりであるが、彼らにいい口実を与えるのが既成政党の動きである。SEALDsは外に開いたグループであるだけに「行動を共にする」という者であれば誰でも受け入れるだろうが当然便乗組も含まれてくるだろう。既成政党の者がいたり、協力者がいたりすればすぐに走狗の「色分け」が始まる。「色分け」などする以前の問題であろうと思われるものでもとにかく色付けが始まり肝心の問題点はどこへやらすっ飛んでいるのである。それが走狗の狙いであるが、そんな古びた常套手段もやがてこの「うねり」に飲み込まれてしまうだろう。それほどこの「うねり」は大きい。70年目の何の気負いもない「集約」でもある。

 某新聞に投稿された元予科練(特攻隊を目指す海軍飛行予科練習生)の加藤敦美さん(86)の文章から彼の同輩、先輩たちの無念の思いが70年の歳月を経て今このような形で集約されたとも思えるので加藤さんが投稿した全文を載せることにする。

「安保法案が衆院を通過し、耐えられない思いでいる。だが、学生さんたちが反対のデモを始めたと知った時、特攻隊を目指す元予科練だった私は、うれしくて涙を流した。体の芯から燃える熱で、涙が湯になるようだった。『オーイ、特攻で死んでいった先輩、同輩たち。今こそ俺たちは生き返ったぞ』とむせび泣きながら叫んだ」、「人生には心からの笑があり、友情と恋があふれ咲いていることすら知らず、五体爆裂し、肉片となって恨み死にした。16歳、18歳、20歳ー。若かった我々が生まれ変わってデモ隊となって立ち並んでいるように感じた。学生さんたちに心から感謝する。今のあなた方のようにこそ、我々は生きていたかったのだ」

 戦後70年目に託けてやたらと戦争映画が垂れ流されているが、戦争映画などというものはたとえ「反戦」、「平和」の意図があろうとも撮り方によっては戦争美化にもつながってしまうという怖さがある。戦闘現場は単にやるかやられるかの殺戮しかなく「人間性」などの入り込む隙はない。そして、いとも容易く五体は木端微塵の肉片となる。それが四六時中、果てしもなく続くだけである。「美しく」抒情性を持たせて撮られた戦争映画、そんな「内容」はまったく存在し得ないのである。これはベトナム戦争体験者などの最前線戦争体験者から得たものを根拠にした否定することができない実情である。

 

 

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