「分け入っても 分け入っても 青い山」、誰でも知ている山頭火の句である。山頭火にしても、「咳をしても一人」の尾崎放哉にしても自らある境涯に身を置かざるを得なかった者の偽らざる真情の吐露があることは誰も否定し得ないことであろう。しかし、彼らの境涯だから可能なことで、何ものをも捨てきれない者が彼らの真似をしても何の意味もない。そこには明確な質の相違がある。彼らの句は彼らの境涯から染み出してきたもので、その中には人間の実相を言い当てているものもあるということである。
分け入っても 分け入っても 青い山が見えているならまだよい。分け入る者に「青い山」が存在し続ける限り分け入る者に少なくとも方向は示されている。分け入る前から青い山は見えていたのか、それとも分け入り始めて青い山が見え始めたのかは各自の解釈に任せるとしても、現在では「青い山」が象徴し得る意味内容をどれだけの者が持ち得るか,またどれだけの意味付けが可能なのか。私には、山頭火が青い山に向かって逃げているようにしか思われれない。それは追立らているようでもあり、引き寄せられているようでもある。果てしのない模索として俳句の道を重ね合せ「青い山」と同一線上に置くのはもっともらしくわかり易いがそれだけはあるまい。
昨今では 分け入っても 分け入っても どこかしら でもブルーマウンテン というところではないのか。
2014 5/21