56.仏教者・瀬戸内寂聴氏のこと

 周知のとおり寂聴氏は作家でもあるが、実践面を見ても仏教者と作家という両者が程よく溶け合い、近年ほとんど見ることができなくなった仏教者と言ってもよい。以前にも今東光という作家兼僧侶という人がいたが、あまりにも俗臭芬々たる豪放磊落さで仏教解釈の面でも疑問点が多々あったので私には馴染めるものではなかった。寂聴氏が稀有な存在となっているのは、仏教者としての日々の実践面とそこから当然出てくるであろう明確な社会的発言である。それも権力の中枢には決して近寄らない仏教者独自の見解である。私自身は天国(極楽浄土)も地獄も信じてはない。霊魂すらその有無の論議については興味の対象外で、「語り得ぬもの」としてとらえている。私が仏教に着目する最大のポイントはその「合理性」にある。日本仏教が本来の仏教とは乖離したものとなってしまっていることについては前も取り上げたことがあるが、「日本仏教」またはそれに類する日本の「仏教的なるもの」の「本体」とは総じて仏教本来の生きる智慧、生き抜く力を養うことなどとはほとんど無関係なところにあると言ってもよい。いささかも憚ることなく「生ものは相手にしない」などと言う「仏教関係者」すなわち葬式仏教産業の「従業者」が発信する「仏教」、あるいは「生もの」を「呪術」の世界に誘う「最終ビジネス」の対象物としてしか捉えていない仏教まがいの宗教産業が跋扈しているというのがその大方の実情でもあろう。ここでもまた似て非なるものが幅を利かせ、「本もの」は影を潜めているという現状がある。ややもすれば日本で生まれて死を迎えるということは一度として「本もの」と接する機会もなくその一生を終えるということにもなり兼ねないということである。哀れである。寂聴氏の社会的行動、発言について、もし作家としてなら納得できるが「僧侶」としてはどうかというのなら、それはすでに「似て非なる仏教」が全身に回っていると見るべきであろう。仏教は徹頭徹尾「生もの」すなわち「生身の『人間』」を「対象」としているからである。因みに、私自身は仏教思想の「方便」にはほとんど関心がない。したがって、作家などが描く「仏教的作品」から何かを得たという覚えもない。仏教者(僧侶)とは、単に講釈するだけの者をいうのではない。そこには「仏教理解」と同時に常に「実践」があって成り立つ世界を有することが限りなく可能な者という意味がある。

                                                  2014  4/5

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