52.浅田真央は自由に演技すればよい

 浅田真央は並みの選手ではない。そういう選手に「基礎」だとか完璧な得点率というような枠で縛ったり、微細にこだわり過ぎては「角を矯めて牛を殺す」ことにもなりかねない。基礎が大事だとはどの世界でも誰でもよく言うことではあるが、それは「並みの者」をある段階に引き上げる時に有効性を発揮することで、真に才能ある者、天才の類には通用しない。そこを見抜けるかどうかも問題であるが、当の本人も自分が「才人」であるとも「天才」であるとも思っていないことの方が多く、本人自身はただ誠実そのものであるというのがその実情でもある。その点が禍いしてややもするとせっかく持ち合わせていた「良きもの」が開花せず終わってしまう「才人」もよく見られることである。「才人」、「天才」などと言われる人々とは、煎じ詰めれば心底「まじめ」になれる人々のことである。そしてそこから自己を解き放つことができる人々なのである。それに反して、凡夫とは言ってしまえば心底「まじめ」にはなれない人々ということでもある。すなわち、良くも悪くも「いいかげん」なのである。その「いいかげん」な人々が、誠実に関わり続けた人間の自己を世界に解き放った瞬間を見て、自分自身の片隅で朽ちかけていたものに気付き、万感こもごも到ることになる。

 彼女がもし女優なら,私は細かいダメ出しはほとんどしないだろう。大きな方向性の指示と壁にぶち当たっている時のサジェストぐらいではないかと思われる。心と体が自由にならなければ、呼吸と一体とならなければ自由自在な演技は不可能である。それを阻害するものは一切排除しなければならないのである。それはある意味では「闘い」でもある。

 本人も気づかないかったような「素材」を引出し、自然の熟成を「見つめる」のが本来の「指導者」、「監督」の役割でもあるが、誤解を恐れずに言えばこのようなレベルの選手には「友達」、「ファン」の方が的確なアドバイスができるかもしれないと思っている。要するに相手の様態を丁寧に見ていられる者であれば誰でもいいのである。「並ではない者」とは「放置」されてもやるべきことをやる者のことなのである。

 とにもかくにも浅田真央は今回の「全人格的体験」で自らの行くべき道を見出したことであろう。そして、今後も誠実であり続ければ指導者としても的確なアドバイスのできる者となり得るのではないかと思われる。

※角を矯(た)めて牛を殺す:少しの欠点を直そうとして、かえってものごと全体をだめにしてしまう。

                                                                               2014  2/22

 

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