道元の「正法眼蔵」を大学でテキストとして使っていた女学者が権力の中枢に集っていることを最近知った。仏教哲学書としても世界的に通用する道元の著作を誰がどのように繙こうが自由であるが、私自身も研究対象としている書籍に関しては気になるところなのである。それも権力の中枢にいる者となれば尚更のことである。本来、仏教が実践を抜きにしては語り得ないということを考え合せればこの女学者の言動が「正法眼蔵」そのものからは乖離して行かざるを得なくなるということについて今多くを語る必要もあるまい。それは、何をどのように認識し、語り得たとしても存在論的意味でもそうなのである。その存在論的立ち位置から発せられる言動は結局のところすべてその立ち位置に帰着するのであって、真実、真理の領域に足を踏み入れることはない。道元の発した「権力に近寄るな」ということは重い。それはあらゆる真実の追究の道とはかけ離れる行為だからである。幼少時から、母を通しても権力の恐ろしさを全身で感得していたであろう道元だからこそ言えることでもある。それは漁師の家に育ち、いつか仏道に目覚め理想主義的に国家にアプローチした僧侶とは質を異にする。「権力に近寄るな」という道元の一言は仏教的範疇を超えた揺らぐことのない戒めなのである。大学で「正法眼蔵」の講読を生業としながら、一方では権力の中枢にいられるという神経はやはり疑わざるを得ないものがある。果たして「哲学者」などと言えるのであろうか?なぜなら、権力の中枢とは真実の探究ということからは逆立ちしてもズレル位置だからである。それは言ってしまえば一時よく目にした「御用学者」など、「御用」のつく類で、その役割は本人の意に反して走狗といったところなのである。
「存在と時間」について語る「有時」にしても、「正法眼蔵」は日本で開花した仏教哲学の最高傑作であると言ってもよい。だから、私としては「正法眼蔵」の関わり方、それを通した「現実的な現れ」が気になるところなのである。「正法眼蔵」なども講読程度だけでは決してほんとうの理解に至ることは難しい「仏教書」でもあるが、それを経ない限り仏教については真に語り得ない、為し得ないのも実情である。そういう意味では現状の日本なども仏教とは実質的に無関係な国であると思っている。
2013 11/4