「宗教一般」は基本的に危険な因子を内包している。それは「信仰」という行為自体に否応なく現れる。カルトも宗教である、だから余計に危険なのである。実態は、「拝金教」を粉飾した露骨な「最終ビジネス」であっても宗教の体裁を整えているから厄介なのである。「経済」も、それが絶対視され「神概念」と実質的に同一レベルに達すれば、「宗教活動」と変わりはない。日本の場合、経済的にいくら追い詰めれれても抗議の矛先が現政府に明確に向かず、行動がほとんど起こらないのは、いつの間にか「拝金教」の信者と化し、現状は飽くまでその「信仰」の一部でしかなく、現実の問題が現実の認識として明確に把握できない、すなわち「信仰」に裏打ちされた希望的観測ですべてがぼやけてしまっているともいえるであろう。その間隙を縫って新種、変種のカルトが蠢く。「拝金教」で満たされない部分を現世ご利益的カルトが埋め合わせてくれるように錯覚する。「拝金教」とは「経済カルト」であり、それが「宗教的カルト」に移行するのは極めて容易で、それが上昇志向の当然の帰結のように思われるのである。「経済カルト」と「宗教的カルト」で遣われる用語は違うようだが、実質的には様々な部分で置換可能で競合する。そして、全体主義的傾向が強いことでも共通するのである。そこが思考停止状態の者にはたまらなく魅力的で、危険なところである。
どちらにしても、判断放棄、思考停止状態の者がカルトに接することは、極めて危険であることは間違いない。また一方では、自己を過信し過ぎて、ミイラ取りがミイラとなっているケースも多く見られる。
最近のカルトの狂乱事例として、ケニアの「餓死カルト」で、400人以上の死者をだしたこともその一例である。そこでは、牧師が「イエスに会うために死ぬまで断食せよ」と命令したということである。こんな愚かしい命令のために400人もの人間が死んでいるのである。この牧師がやっていることは、立ち行かなくなったブリーダーが動物を始末するのと何ら変わるところがない。まともな宗教者のやることではないことは確かである。それでもカルトとして組織化され、一旦、絶対的権力を持つ全体主義体制ができてしまうと、どんな笑止千万なことでも是として通り、残酷なことが日常茶飯事なこととなってしまうということである。よくある話であるが、ど壺にハマってしまうと身動きがつかなくなるのである。現在でも、すでに戦時中の様相を呈していることや、戦時中を彷彿とさせる事象は枚挙にいとまがないのである。
連日の猛暑、物価の高騰、むしり取れと言わんばかりの増税、生活に追われ、いつしか判断放棄、思考停止状態になれば、ここぞとばかりに危険因子、分子が接近、情報操作で囲い込みを始める。そのアプローチは宗教の領域を超えて、残酷な「子守歌」のようである。
2023 7/26