R・TW-5 全編ワンカット撮影

 先日、たまたま全編ワンカット撮影の映画を観ていて、その時間の「流れ方」にほっとしたというより、様々なことが確認できたといった方がよいかもしれない。その時間の流れ方から生じる「間」とアングルに触発されたイマジネーションが自己増殖するのである。さらに様々なシーンで新たに想像力は喚起され、よりリアルな現実となって迫り、追体験させる。昨今の映画に感じていた落ち着きのなさとは、これなのである。飽きさせないための趣向ばかりが先走り、際立ち、必要以上の場面転換、カット数、さらにそこにCGの映像までが入ってくる。それだけで、手の込んだ押しつけがましい煩さだけが残り、想像力を喚起させるものがほとんどなくなってしまっているのである。安っぽい観念の押しつけと転換スピードとCGですべては埋め尽くされ、それは「想像力などなくても充分楽しめますよ」と言わんばかりの「出来映え」なのである。結局のところ、何も残らない。奇を衒った思い付きとCG映像ばかりではやがては飽きがくるのはわかり切ったこと。CGなどは、「技術屋」、「ゲーマー」には楽しいかもしれぬが、芸術領域ではすでに飽きられている。要するに、エンタメにしても、アートにしても「ゲーム屋」、「技術屋」で済む話でもなく、たとえ明確な世界観を持つ作品をベースにしたものでも、その扱いにはやはり作り手の方に同等の世界観がないと、CGや「小手先」などでは時間を埋めることはできないということである。「時間殺し」(つぶし)」に人生などあろうはずもないのである。

 さらに言えば、もし想像力が権力に立ち向かう唯一の「牙」であり、「臼歯」であるなら、この手のエンターテインメントの趨勢そのものが、多くの人から想像力を奪う動きとリンクして、その「牙」と「臼歯」を抜き取っているともいえる。それも、いつ抜かれたかもわからぬ程の笑気ガスによる無痛抜歯である。やがて、何を見ても咀嚼(そしゃく)不可能となり、味もわからず飲み込むだけとなる。五臓六腑にもいいわけがない、その内、病むことになるのは必定である。

                       2023 7/4

 

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