新作映画で話題を提供している北野武監督であるが、1993年に「教祖誕生」を北野組のスタッフで映画化したものがあったはずである。今あの映画を流せばタイムリーであろうと思われるが、なぜかどこも怖がって(?)流さない。内容的には、有象無象の新興宗教団体の痛烈な皮肉とその凶暴性をたけし自らも演じている映画である。もはや、あまりにも生々しい現実を見せつけられるので笑えないのかもしれない。しかし、それは、その愚かしくも生々しい現実を再確認(対象化)することの一助ともなり、それなりに意味もあろう。
因みに、1989年にオウム真理教が起こした、坂本弁護士一家殺人事件(TBS側がオウム真理教側にインタビュービデオ並びに弁護士一家の情報を提供したことに対して、筑紫哲也が「TBSは、今日死んだに等しい」といったエポックメーキングな事件でもある)、その他にもオウム真理教は信者・元信者へのリンチ殺人、信者家族の拉致監禁殺害を繰り返していた時である。そして、今、テレビ、新聞はどうなったか、再生するどころか、「仮死状態」のまま崩れかかっている。テレビを見ていると、時折、人間不在で、すべてが未完成なAIではないかと思われる時がある。そんな時、2001年ニューヨークの世界貿易センタービル崩落時と重なった私の作・演出で上演したAIが登場する「冬眠する男」のことが頭に過る。自分の作ったA1の完成体を目の前にした教授に、「このAI研究はやはり危険だ」と言わせことが、現在出されている「AIが人類に絶滅をもたらすリスクを考慮すべきだ」という共同声明とも重なる。
今、チャットGPTなどで、膨大なデータを蓄えたAIが俳句の上、中、下の句を組み替えて、天狗俳句を楽しむ程度で物事が済むのなら可愛げもあるが、そんなものはほんの一部の悪魔のカモフラージュに過ぎないとも言える。おそらく気が付いた時には身動きが付かなくなっているといった具合なのであろう。しかし、現在の私自身は、膨大な既成のデータの集積がもたらすもの以外、AIが人間を乗り越えることはできないと思っている。AIのシンギュラリティなども科学者の数値的妄想、夢想の域を出ない。
2023 6/1-6/3