西村博之について、「昆虫の足を引きちぎって楽しんでいる子供のような人間」と評し、さらに「こんな人間が世の中にいるということを日本人に教えたかった。今は『ひろゆき』のような人たちばかりでしょ」と語る川上量生(ルポライター・清義明より)。
まさにダークジョークそのものである。それはやがて「恥をほとんど何とも思わない彼の能力はある種の最終兵器」(NYタイムズ)と言われることにもなる。何のことはない、新自由主義の悪しき典型例である。
因みに、小動物の虐待は、神戸連続児童殺傷事件(1997年)を出すまでもなく、危険な兆候でもある。もし殺人には至らなくとも、時間の経過とともに歪みはさらに内面化され、手の込んだものとなり、直接手を下さなければ殺人もありの何でもありということになる。「無名よりも悪名」などと平然と言う御仁(小泉→竹中)もいたが、新自由主義の本体からにじみ出てくる非人間的志向の最たるものである。しかし、ちょっと見回せば、こんな人間はごろごろいるであろう。この種の人間にとって誠実な人とはすなわち「頭の悪い人」ということになるのである。しかし、自分だけは賢いと思っているこの手の人間の所業をみれば、実はすべてがスカスカで、何もないことがよくわかる。所詮は、外道で、賢く立ち回っているようだが、その実は走狗そのものである。やがては狡兎死して走狗煮らるで、煮られるまでの「最終兵器」を弄ぶしか術はないのである。どのような形相を呈して堕ちて行くか、じっくり見させてもらうが、もはや堕ちるところさえないのかもしれない。
2023 4/18