奈落を頻繁に垣間見るようになるとつい「希望」だ、「夢」だ「絆」だなどという空疎な言葉が唯一負のスパイラルから抜け出す指標のように思えてくるのも凡夫の凡夫たる所以でもある。そして、ネガティブな現状をポジティブに生きる方法論、HOW TOものがもてはやされ本屋にもその類の本が溢れる。正当な「駄目だし」さえも単なる「非難」、「足の引っ張り合い」の一環の中に矮小化され中和させられ、その内に、肝心な現状の問題点を見失っていく。いつものパターンと言ってしまえばそれまでではあるが、現状がどのように忌まわしいものであろうと、すべてはそれを直視した上での話である。人間はたとえ地獄を見ても何とか乗り越えようとするが、そんな時「希望」は真実を曇らせる方向でしか働かないものである。それは、底なし沼のある足場の悪い地雷原で前だけを見て歩けといっているようなものである。思い込むのは勝手ではあるが、それでは命がいくつあっても足りまい。
安易な「希望」は身を亡ぼすだけではなく、真実を知ることもなく生きさせる幻覚剤となり、ついには「人間の形骸」に至る。それはいつ壊れても不思議ではない偽りの人生である。真実を知ってどうする?自らの首に縄をかけられてもなお事の次第が分からず微笑みかけるのも、唾棄するのもまた人生である。お気の召すままに。
今宵は妻とふたりで送られてきたシャンパンと葡萄酒でクリスマスイヴを楽しむことにする。
2012 12/24