現在の日本の「芸術」一般については括目に値するものなしと言うべきか、現実の方が括目すべきものが多過ぎるというべきなのか。総じて創作者の想像力がその源泉でもある現実にしっかりと根を下ろせず根腐れ状態のまま半ば枯れた枝に辛うじてひ弱な葉をつけているというような様相を呈しているとも言える。演劇については猶のこと、今何でこんなものをやっているのか、やっていられるのか不可解なものが多い。多くはサイコドラマの域を出ないか、「商業演劇」の縮小版で、純然たる作品として鑑賞に堪えるものなどはほとんどない。それは演劇に関わっている者にとってだけ必要なものでしかないというのが否定しがたい現状であろう。「大向こうをうならせる」などという言葉もあるが大向こうにいる第三者の観客の意識自体も下降の一途では「発信者」と「受け手」のより良き関係などは成り立ちようもない。具体的で分かりやすい内容とされていたものでさえ内容そのものがどこか宙に浮き、僅かな掛け違いが一瞬にして大きく拡大されその世界を色あせたものにしてしまう。憐れみと同情で見られるような芸術作品などはあってもなくてもどうでもいいものというより、むしろない方が世のためであろう。それは不純物の中に常に否定すべき「虚偽」、「偽物」を滑り込ませそれを肯定的に蔓延させ、文化的営為そのものを劣化させるだけだからである。今、演劇などは単なる「癒し」としての位置すら確保できなくなっているのが実情であろう。現状は刻一刻すべての領域において再構築を迫り、根底からの変革を求めている。「継続」などというコンセプトに活を求める作業自体が欺瞞的なのである。「発信者」と「受け手」のより良き関係などということも、自分たちだけが「幸福」になることが論理的にも不可能であると同様に、ある程度の文化的底上げがなされるまでは実質的に成り立ちようもあるまい。まだまだ先の話である。
2012 11/29