チャップリンについては、このサイトでも何年か前に取り上げて、弱者をターゲットにして笑いのネタにしている「お笑い芸人」の貧相な問題について書いたことがあるが、そこでも、笑いの質の問題として、チャップリンの映画「独裁者」(1940年)を援用したことがある。最近では、ウクライナのゼレンスキー大統領が17日、フランスの第75回カンヌ映画祭の開幕式にオンライン参加し、ナチス・ドイツのヒットラーを風刺したチャップリンの映画「独裁者」に言及した。そこで、今「新たなチャップリンが必要だ」ということを呼びかけた。やはり、並の感性ではない。
チャップリンがいられない場所、国はどこか考えれば、すぐにその答えは出てくるだろう。そう、ロシア、中国、北朝鮮などでは、まず彼が存在することすらできまい。チャップリンのような存在は世界のリトマス試験紙であると同時に、その方向性の是非を笑いの内に(距離を置いて冷静に見ることを可能にする)提示するのである。
ゼレンスキーがこの時期に、チャップリンを登場させる感性は、微に入り細を穿つった「御託」の万言を遥かに上回る。
頭に血の上った御仁たちの、正義、正論、王道の類の「御託」に振り回されていると眩暈の中でどこに飛ばされるかわからないということである。御大層なことを言っているようでも、彼らを突き動かしているものとは、詰まるところ、「経済」、すなわち金なのである。
2022 5/22
追記:チャップリンが存在し得ない「国」とは、何も上記のようなあからさまな独裁国家ばかりではない。民主主義を装った真綿のような独裁国家もチャップリンのような存在を巧妙に消し去るということである。果たして、日本はどうか?