アダモの「雪は降る」TOMBE LA NEIGEが流れると、以前、ピエール・ノットの芝居がはねてから、彼の連れてきたフランスの生徒やスタッフとカラオケに行ったことを思い出す。そこで、ピエールと一緒にTOMBE LA NEIGEを歌いながら踊ったのである。動きはもちろん即興であったが彼の動きは実に滑らかであった。さすがであると思ったことなども懐かしく思い出される今日この頃である。フランスには、俳優兼演出家というのがごく自然に成り立ちうる土壌がある。日本では、俳優を挫折した、あるいはできない者が演出家をやったりする場合が多いが、何も俳優ができなくても「今」の的確な読みができていればそれは可能なのである。ただし、そこに生じる「歪み」の持って行き方を間違うと、展開は望めなくなる。さらに、日本の演劇事情が貧弱なこともあり、どうしても限られた者(才能の有無ではなく)の限られた交流しか成り立たないということも拡大しない要因でもある。小劇場にさりげなく、老夫婦に交じってカトリーヌ・ドヌーブなどが観に来ていたりすることは、日本ではまずあり得ないことである。モンローが、その最盛期にその演技ついて悩み、駆け込んだリーストラスバーグのような演劇研究所もないが、もし必要であっても日本ではスターとなったらそれまでで、演技研究などまったく眼中になくなるだろう。お座敷芸に毛の生えた程度の実力でも売れればスター気取りでそのままで済ませるというのがほとんどの在り様であると言ってもよい。底力も実力も雲泥の差になるのは極当たり前のことなのである。それも目には見えぬ文化レベルの差である。何から何まで、「演じて」演じられると思っている三文役者が多過ぎるとも言える。それは「やっている振り」、「やった振り」ですべては事足りると思っている者たちの動向にも通底している。ものを見る眼が養われていないから、こんなことをいつまでも許しているのである。「振り」ではなく、「それを生きる」ことが最も重要なことで、そのことを的確に見抜けるかどうかも、文化レベルに関係してくる。
序に一言付け加えれば、政治屋ばかりで、政治家は稀であるのと同様、演出屋ばかりで、演出家と言い得る者はなかなかいないのも現状である。それは有名無名問わずである。有名といわれている演出家が単なる演出屋であるケースは枚挙にいとまがない。さらに言えば、政治屋と同様、演出屋の方が生きやすく、銭回りもいいのである。演出家と演出屋の見分け方は、至極簡単、顔と言動である。
2021 9/23