個性についても、自由についても様々な形で書き記してきたが、身近なところで同じように感じている人もやはりいるものだとあらためて感じたので取り上げることにした。「多くの若者が、携帯電話やiPadで音楽を聴きながら街を歩き、メディアやゲームに夢中になっている。その様子はある種異様だし、とても心配だ。なぜなら、個性がむしばまれる。とにかく彼らが現実から目を背けているのが残念なんだ。もちろん彼らにもそうする自由はある。でもそれは本当の自由ではないことに気づくべきなんだ。自由の代償は大きい。」と言っているのはボブ・ディランである。
そのようなことで個性は確実に徐々に失われていくが、本人にははっきりとした意識がないのが怖いところでもある。そして、自由にふるまっているつもりでいるが、それは「何者かに」まんまと乗せられた自由で、本来の自分を取り戻す方向から乖離するばかりである。自分の貴重な時間が刻々と盗むまれているのも実感として全く感知しえないのである。本当の自由を手にすることができなかった、ある意味では自由を恐れるあまり、いつまで経っても古色蒼然たる陳腐な世界にいるしかない者として終わるのである。実際、文明の利器を弄び、最新の生活スタイルを楽しんでいるように見えるが、精神的には100年前、1000年、2000年前とさほど変わってはいない、むしろ退化、劣化しているようにみえる。
そして今、現実から目を背けることで、本当の個性とも自由ともますます無関係な方向に向かわざるをえなくなってきている。その様相はやはり異様なのである。最近は、「人間の言葉」を聞くことは稀になったというのもその現れの一つであろう。要するに、人間の不在化があらゆるところで蔓延しているのである。ボブ・デュランの感じた異様感は反個性、反自由のファッショの異様感でもある。
2019 8/15