自殺した者たちを弱き者、敗れた者と捉えている限り、ほんとうの意味での進展、展開はないのではないかとさえ思われる。たまたま生き延びられている現在の「生」の根拠を自分の「裁量」、「力量」と錯覚しているのではあまりにもオメデタ過ぎる。そんなものは思い込み、思い過ごしといってもよい程のものである。神などを想定しなくても「人間」というものが徹頭徹尾不完全なものであるという認識と他者への共感があれば、自死した者たちについて思いを馳せることは至極当然のことであろう。実際、こんな世の中に生まれてきたことを呪いつつ逝った者も数知れず、その多くは痛々しいものである。繊細であったり、ピュアであることもこの世が地獄であることを一層際立たせる。果たして生きる値打ちなどあるのか。「なぜ、生きなければならいのか?」という問いに対して「まともに」答えられる者がどれだけいるのか。そもそも生き延びることがどれほどのことなのか、生きた時間の量で決まる「勝者」などまったく無意味である。ただ「耐える」時間の量が増えるだけで、ある意味では時間の敗者とも言える。無益な苦悩ばかりが増大することの方が多いという意味では無益に生が引き延ばされただけともいえる。それが無益ではないと「思うこと」自体は自由であるということに過ぎないだけでそれ以外の確証は何もないに等しい。
自死する者たちにはなぜ死に急ぐのかという問いも虚しく、実際に自殺者の数は減らない。ほんとうには「寄り添う」などということも難しいであろうと思っている。ただ、彼らが抱えている「人間」としての問題、ピュアでもある視点がこの世からどんどん消えてしまうが惜しいのである。それによってこの世界はますます暗く醜悪な部分ばかりが増殖するのではないかとも思われるからである。自殺を考えた者こそ何としても生き続けて欲しいのである。彼らこそ生き続けなくてはならないと思っている。自らが持っている「光」を自ら消してはならない。どちらにしても、死はやがて確実に訪れるのである。
最近特に頻出する「寄り添う」という言葉、「絆」と同様、言葉に酔っているのではないかと思われる節が多々あるのが実情である。言ってしまえば、様々な問題を根本的なところから目をそらさせるのに都合のいい綺麗事に収れんさせる言葉なのである。ただし、「寄り添う」ことを試行錯誤を繰り返しつつ個的に実践している者を全面的に否定するつもりはない。
2017 9/4