76.再び「私もカトリーヌ・ドヌーブ」について

 ピエール・ノットの作品「私もカトリーヌ・ドヌーブ」は2007年4月「シアターχ」で、2008年2月「池袋あうるすぽっと」で平山勝の演出で上演された。その詳細についてはこのサイトでも以前取り上げている。それではなぜ今再び取り上げるのかと言えば、それはフランス語通訳・翻訳の人見有羽子氏の文書を改めて読み返してみて、これは全文を載せた方がピエール・ノット作品をよりわかりやすく紹介できるのではないかと思われたからである。そして、そこにはピエールと私を結び付けることにもなった今は亡き制作者も登場している。終演後の彼の満面の笑みも合点がいく。

以下 人見有羽子氏の全文である。

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「私もカトリーヌ・ドヌーブ」作/ピエール・ノット

                       フランス語通訳・翻訳 人見有羽子

「今年(2008年)の公演はキャストもずいぶん変わっての再演なので、ぜひ見比べていただくのも一興かと」というような芝居好きの心をくすぐる言葉を主宰の谷さんから囁かれ、日本初演から10か月後に再び「私もカトリーヌ・ドヌーブ」と向き合うことになった。さて、これが期待以上のサプライズだった。おそらく初演の時には、民間劇場部門のモリエール賞受賞作品という立派な肩書に、何かを理解しなくてはという気負いがこちら側にあったのかもしれない。あるいはシリアスな状況下に次々と挿入される澄んだ声のシャンソンに戸惑ったのかもしれない。観終った時に自分の言葉で作品を語るには消化不良感は否めなかった。

 ところが、今回は見えた。舞台上の登場人物の心象風景がくっきりと見えた。カトリーヌ・ドヌーブという絶対的にして甘美な虎の威を借りて自分のおぼろげなアイデンティティを支えようとする姉のジュヌヴィエーブ、母親がまだ母親ではなかった頃の歌手人生を引き継ぐかのように歌い続ける妹のマリー。彼女の自己確認は口を開いた皮膚の下からにじみでる赤い血。そして母親は思う通りにならない家族に間断なき小言の散弾を浴びせ、レモンケーキを焼き、娘の血だらけの下着を洗う。家族で唯一の男子、長男はといえばたまに実家に戻ったかと思うと映画の引用と母親の文法の間違いを指摘するときにしか口を開かず、ケーキの種にふくらし粉をひと袋丸ごとあけてしまう。文字にすると破壊的で悲愴感に満ちた家族の姿。しかし、舞台で目にする彼らは、力強く歌い、テンポ良く罵倒しあい、その過剰な不器用さゆえの滑稽さが切ない。手にはカッター、肉切り包丁、ピストル・・・あたかも死と戯れているように見えながら、聞こえてくるのは声にならない、もっと生きたい、もっと存在したいという切実な声。自分とは違う誰か、こことは違うどこか、言葉にはできない欲求をもてあまし、もがき、苛立ちをぶつける彼らは決してあきらめてはいない。むしろ、生に対する熱烈なラブコールにさえ思える。それほど今回観た舞台は演出にも役者の演技にも力が漲っていた。個人的な好みを言えば、母親役を演じられた山下清美さんの小気味のよい独特のセリフ回しが戦前のパリの下町女を演じて右に出る者がいないアルレッティを彷彿とさせ、ヌーヴェルバーグ以降の映画の引用が散りばめられた本作で、時代遅れの存在感をひときわ際立たせていたように思う。

 終演後、思わず谷さんの姿を探し興奮を伝えた。表に出ると頬を刺す冷気がここちよく、帰途につく足取りは軽い。そして、夜空を見上げながら、作者ピエール・ノットにブラボー!のメールを送ろうと決めた。

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※人見有羽子氏については日仏で活躍していらっしゃる方などで調べればすぐにわかるはず。

 

                                 2017 5/2       

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