これはもうベストセラー作家などという範疇、コンセプトを超えているであろう。ご存じJ・K・ローリングの新作「ハリー・ポッターと呪いの子」である。この戯曲はアメリカとカナダだけで刊行後48時間で200万部売れたそうである。「ハリー・ポッター」シリーズはすでに60数か国で訳され、億単位の部数が出ている。しかし、これはJ・K・ローリングという作家の「知」の吸収度から見ても当然の結果であろうと思われる。それは、「吸収された」ものの「質量」の違い、文化そのものから自ずと培われたものともいえる。一般教養、哲学などを重要視する国々と一般教養などは軽視され、専門知識、技術などだけに重点を置く国とでは底力が違うは当然である。御しやすい専門バカのような者ばかりを大量生産し、後は親子で楽しくゲームばかりでは「人間」そのものが衰微するのは止むを得ないことであろう。衰微どころか退化していくのは目に見えている。衰微している者同士が所在なげに認め合う作品などはあってもなくてもどうでもいいものなのである。
敢えて言うまでもなく、J・K・ローリングが日本のベストセラー作家など及びもつかない超ベストセラー作家であるなどということだけを言いたいわけではない。作品の内容にも「吸収された」「もの」が違うということを感じるが、それと同時に映画化された作品の出来具合、出てくる俳優の層の厚さにも改めて驚かされたのを覚えている。今回の戯曲は、脚本家、演出家、作家J・K・ローリングの共同作業でもあるようなのでまた新たな展開も考えられる。「一語たりとも削除、変更は許さない」などという大様そうな偏狭な「大御所先生」とは違って彼女には共同作業も自分のものとしてしまう器量もあるように思われる。それは「自己完結」とは無縁である。そういう意味でもハリー・ポッターの「後日譚」の舞台化は気になるところである。
2016 12/2