67.「To be or not to be,that is the question」

 ご存じ「ハムレット」の台詞である。シェイクスピアの作品の中でもこれ程人口に膾炙(かいしゃ)した台詞もないだろうと思われるが、どの訳も私には馴染まない。実際、解釈次第では微妙に変わってくる、また変わり得る可能性を秘めた台詞でもあるが、根幹部分で何かが抜け落ちているとしか思われない。

「世の在る、在らぬ、それが疑問じゃ」(坪内逍遥)

「生きるか、死ぬるか、そこが問題なのだ」(市川三喜、松浦嘉一)

「生か、死か、それが疑問だ」(福田恒存)

「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」(小田島雄志)

「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」(河合祥一郎)

 

 これらの訳から、一瞬一瞬の行住坐臥の全存在の在り様そのものが問題として鮮烈に迫りくることはない。「生か死か」の類ではそれ以前の静かに深くうねる内的葛藤そのものを表現しきれない。なぜ「to be」なのかということである。それは、「いかにあるか」という徹頭徹尾存在論的自問自答の果てにしか浮かび上がってこない。そして、実はそれがすべてなのである。それは自分がどの「位置」に「いる」かを選び取る覚悟でもある。すべての問題はそこに帰着するのである。大上段に構えすぎる訳も、身近に引き寄せる訳も共にハムレットの「立ち位置」の存在論的切迫さを表現し得るものではない。いかに今あるべきか、あらざるべきか、それが問題なのである。そこには「生」も「死」もない。そうかと言って「このままでいいのか、いけないのか」などという弛緩した時間の流れの中で再構成されるほど悠長な話でもない。認識論を根拠に存在論を導き出せないという意味で「To think」だから「To be」なのではない。敢えて言えば、「思考」しつつ「ある」のである。また、私が「存在する」ということ根拠にその認識論を云々することもできない。存在しつつ思考しているだけである。

 昨今の実情を見ても、自分がどこにいて、いかにあるかも不明で、そのうちにいつの間にか崖っぷちに立たされているというようなことをよく見聞きする。凡夫がハムレットのような境涯に立たされることは稀であろうが、その問題はごく身近な問題であることは確かである。「在り方」がすべてで、言っていることは「在り方」と離れてあるのではなく、「在り方」が語らせているのである。

 具体的な例でいえば、「今を時めく」為政者とその周辺の「あり方」はそのまま彼らの全思考過程そのもので、「在り方」を変えない限り、それ以上の「もの」、「こと」はあり得ない。彼らの言動のすべては選択の余地のない彼らの「在り方」「To be」から発しているのである。「これしかない」などいう雄たけびも、「一億総活躍」なども彼らの「在り方」からくるもので、その「立ち位置」は100%国民の側にはないことは明白。だから、国民を欺くためにありとあらゆる「目くらまし」を使い、ねつ造、糊塗、パフォーマンスの常習犯となるのである。これだけ露骨にそれだけしかないというのも前代未聞で、これはやはり大問題である。

                                  2016 5/17

 

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