「葬式仏教」とは本来の仏教とは似て非なるもの、すなわち似非仏教なのである。生きている者たちを対象としない仏教など死んだも同然の仏教である。それなりの方便を持ったそれなりの祖師のいた伝統的仏教集団も現在ではおおよそが死に体同然、さらには仏教思想とは離反する言動を平然となす「高僧」まで現れる始末であるから、当然のごとく宗教を「最終ビジネス」と捉えて営利を貪る輩も出てくる。そのような現状にもかかわらずごく少数の仏教者は本来の仏教思想を踏まえて日々実践していることであろう。しかし、それはほとんど「表」に出て来ることはない。むしろ、「表」に出ることを嫌う傾向さえある。今、方便の寄せ集めのような方便、本質とはかけ離れるばかりの「教え」を片手に派手な宣伝をしている宗教関係者、あるいは「既得権益」しか頭にない既成寺院の関係者などと本来の仏教思想は無縁である。
仏教思想の方便は飽くまで方便、場合によってはそれによって仏教そのものから遠ざかることにもなる。戒名、布施などの金銭が問題となるなど言ってみれば外道である。ここには仏教の大衆化路線に伴う安易な方便化の弊害もある。そして、仏教とは関わりのないところでいつしかできてしまった既得権益などは御多分に漏れずここでも同様なのである。仏教思想の「立て直し」などとは二の次三の次、寺院の「経営的手腕」の類が問われているだけでは仏教の中枢とは乖離するばかり。実際、テレビなどに出て来る「坊さん」たちを見ていると、とても「僧」として研鑽を積んでいるようにも実践しているとも思えない、日々何に勤しんでいるのかと思うような顔つきのばかりの顔触れである。これでは葬儀屋と変わるところはあるまい。
現状は、民主主義と同様、仏教も形骸だけで全く根付いていないということである。もし、この実情を否定する者がいたとするなら、それは単なる無知か、立ち位置は既得権益側であることの証左にしかならない。
2016 3/30