173.「反五輪」

某テレビ番組で、パリ五輪について聞かれると、斎藤幸平は「いや、全然見ていないですね。私は反五輪でボイコットしているんですけど、まあ理由はいろいろあるんですけど、今回私が理由にしているのはスポーツウオッシュに加担したくない」と説明した。右顧左眄のポイントの外れたコメンテーター、「識者」などが多い中、非常に明快で焦点のあった問題提起であると同時に言うだけではなく、実践的な知識人としても近年では稀な人物である。

 私も同意見であるが、そもそもオリンピックそのものが、その趣旨に反して巨大化した組織の弊害ばかりが現れて、行う意味があるのかというところまできているのが実情でもある。スポーツの世界レベルの競い合いということであれば、世界に大きな大会が幾つかあることで済むことで、何も定期的に無理やり一堂に会する必要もあるまい。現在、様々な形で噴出している問題を押さえ込んでも4年に一度の世界大会を強引に開催する必然性などはどこにもない。また、それを行うことで世界がより良い方向に進むとは到底思えない。実際、一方では戦闘は継続して現在進行形、他方ではジェノサイドが同時に進行している。この厳然たる事実を見ないことにして、行われる「世界の祭典」とは一体何の祭典なのか。「スポーツを通して心身を向上させ、文化、国籍などさまざまな違いを乗り越え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって、平和でよりよい世界の実現に貢献すること」を目指す、この理想が一体どこに受け継がれているというのかということである。どのような美辞麗句を並べても、「平和でよりよい世界の実現に貢献」などとは画餅で、単なる資本の祭典、国威高揚の「世界の運動会」というのが実情であろう。

 パリ五輪の開会式については賛否両論があるようであるが、これはやはりフランスらしい世界についての反応であろうと思われる。要するに、現在の世界情勢の中でのオリンピックそのものについての在り様の問題提起である。こんなことをやっている場合かということでもある。東京五輪の媚び媚びのどこまでもしだらない持って行き方と比較すれば、それは明らかである。トーマス・バッハに対する卑屈なまでの態度、それはあたかもオリンピック帝国の皇帝にひれ伏す奴婢のごとくであった。

※スポーツウオッシングとは、「為政者に都合の悪い政治や歪みをスポーツを利用して覆い隠す行為」日本では、2020年東京オリンピックの頃から注目され始めた概念であるが、ヒトラーの例を出すまでもなく、古今東西の独裁者はこの概念をフル活用してきた。

※東京大学准教授・斉藤幸平氏については、その著書「人新世の『資本論」』(集英社)を私の関係する「てんびん社」では2021年より推薦図書としている。「てんびん社」については現在工事中なのでこのサイトでも適宜取り上げていくつもりである。

            2024 8/1

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