2024年7月の都知事選は、報道の自由の劣化が見事に浮彫になった。現在の日本の報道の自由度70位とは、先進国とは比較にもならず、38位の南アフリカにも及ばず、コンゴと競い合っているレベルである。今回の都知事選について、新たな選挙戦の勝利などと吹聴している怪しげな集団などがいるが、何のことはない、まともな報道がなされていなかったということに尽きるのである。実際、再選された小池百合子は前代未聞の様々な問題を抱え追及されて当然の状態であったが、ものの見事にその件については一切報道はされず、討論会にさえ出席しなかった。あり得ないことである。それに反して、その対立候補・蓮舫については、微に入り細を穿つ、それもネガティブキャンペーンの類ばかり、これだけで異常事態であろう。当然、追及されてしかるべき者については完全に沈黙。こんな民主主義国は存在し得ない。この問題のある現職知事と全く政治的見解が同一で、なおかつカルトとの関係もある石丸伸二のアピールばかりが目立ったのも異様であった。この石丸についても小池と同様、まったくその問題点についてメディアは緘黙状態。これでは有権者は、と言っても情弱系の有権者と言った方がいいが、このお遊びのようなユーチューブに巻き込まれてしまうだろう。そうだからといって、それが今後の選挙の新たな手法と言い切るにはかなりの問題がある。要は、政官財、電通、メディア、カルトが合体して小池、石丸を強引に後押した結果が、今回の選挙結果でもある。今後もこの複合体は結束力が強くなることはあっても、弱まることはないだろう。現在の経済状態のままでは、メディアがそこから抜け出すことは容易ではない。だから、それが何かと都合のいい者たちはアベノミクスの正当性を強調するのである。政官財、電通、メディア、カルトの複合体の強化とは、すなわわち独裁体制の国造りなのである。それが、今回の都知事選には露骨に現れていたということである。やがて、テレビも全国紙も終焉を迎えると言われている。そのような流れの中で、我々一人一人が、どこまで意識をはっきりさせたまま、騙されず、野垂れ死にすることなく人生を全うすることができるか、そのためにはどうしたらよいかということが具体的に突きつけられているのである。
2024 7/14(パリ祭)