171.仁義なき戦い

 都知事選の動きを見ていると、「仁義なき戦い」を彷彿とさせる。現実社会でも仁義を重んじる菅原文太が今、生きていたらどう動くだろうか?以前、広島の国民新党の応援演説で堀江貴文を「仁義なき戦いをしている」として「切って捨てた」菅原文太である。今回の都知事選も仁義なき者で溢れているが、菅原文太であれば、迷うことなく蓮舫を助け、応援するであろう。義があるからである。かつて、三島由紀夫は石原慎太郎について「君には義がない」と言ったが、その通りであった。山本太郎にも義があり、蓮舫にも義がある。菅原文太が生きていれば、必ず応援に駆け付けるはずである。政治ビジネス、カルトビジネスに群がるヤカラとは本質的に異質なのである。人間としての核が解体してしまっているような「解体人間」にとって、嘘、裏切り、隠蔽、糊塗などは朝飯前、日常茶飯事のことである。しかし、それは飽くまで徹底的に追及されるべきことで、追及の手を止めた瞬間から人間の敗北となる。だから、「解体人間」たちは我々人間を常に忘却へ誘う、「まだそんなことやっているのか?」、あたかもきれいさっぱり忘れることが美徳かのごとくに忘却へと誘うのである。人間は記憶の総体であり、歴史は記憶の集積、忘れ去るということは、そのこと自体が敗北の証となる。どのような辛いことも忘れる必要はない、その一つ一つを明確にすることで、さらに見えてくることもあり、乗り越えることも可能となり、全人格的に変容をもたらすのである。忘れることが、「悟り」でもあるかのごとく、また忘れないことが無粋であるかのように思わされているのは詐術師、権力者の罠にまんまとはまっている証左でもある。もっとも、本然的に記憶力の悪い人はいるであろう。言ってみれば、歴史が存在しない人、それは何度過ちを犯しても気付かない人である。

そう、生きていたら坂本龍一も応援に駆け付けることであろう。

 

                      2024   6/3

 

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