46.「今は映画を撮っている時じゃない」

 これは11月28日に亡くなった俳優・菅原文太の3・11以後の2012年の俳優引退宣言の際のメッセージである。菅原文太については以前から骨のある日本では稀な俳優であると思っていたが、最近の言動からもそれは窺い知ることができた。私も2011年3月11日東北大震災以後、改めて根本から捉え直さざるを得ない状況になったのでそれまで呼吸するように何とか継続していた、時には「呼吸困難」にもなりかかった自己確認、状況確認も含めた活動のすべてをペンディングもしくは停止することにした。それについては以前このサイトでも取り上げたので詳細についてはここでは避ける。

 「今は映画を撮っている時じゃない」というのは、当然敷衍されてしかるべきことで、何も「映画」に限ったことではない。古い表現を借用すれば、現に「打ち震えている」人間たちを前にして「映画」、「演劇」、「文学」、「音楽」がどれほどの意味があるのかということでもある。それを見据えてどこまで何ができるのかということになるが、それは「どんなことをしても」自己満足の領域を出るものではあるまい。そして、それは「自己満足の質」そのものに当の本人の自己確認がどこまでできるのか、また、その作業に終始することにさらに「意味」を見い出せるのかということになるが、日本の現状の中では稀なケースを除いて、もはや継続続行自体が総じて「守銭奴」、「ヤマ師」の群れに与していることの自己証明でしかなくなっている。

 

 菅原文太しかり、吉永小百合の明確な社会的発言などにおいても同様であるが、このようなしっかりと自分の世界観をもった俳優諸氏が諸外国に比べて日本は極めて少ない。そして、なぜかその小賢しさばかりが目につく者が多いのである。それがやはり役作りにも影響していて本当のところ説得力に欠ける、すなわちすべてにおいて「迫力」に欠けるということになる。俳優修業などという小手先の作業よりもっと根本的な世界観から叩き直した方がいいのではないかとも思われる。やはりそれも「民度」の差の現れなのである。

 菅原文太のメッセージはしかと受け止めた。というよりはその方向性をいくらかでも分かち合える者がまた一人逝ったという気持ちの方が強い。昔、若くして自死した飲んだくれの「物書き」がカウンターに半ば崩れながら「菅原文太いいねー、ほんまものの男やねー」と絞り出すように言ったのを思い出した。

                                                                                                                                                                2014年12/3・・・12/7

アーカイブ
TOP