162.やはり、自由が怖いのか?

 「私たちが欲しているのは、自己の自由ではない、自己の宿命である」とはシェイクスピアの翻訳者、研究者としても知られる評論家の言であるが、いかにもという感じである。実のところ、「私たち」は自由が怖いというのがほんとうのところである。何ものかに身を委ね、決められた道を必要以上に考えることなく突き進む。それは、意識するとしないに関わらず一瞬一瞬自己の判断に頼らざるを得ない自由の道よりはるかにスムーズで、勢いづきやすく時間の「流れ方」も違うはず。それが「自己の宿命」と思い込むことで、自己の自由はさらに強固に封印される。何かというと、自由、自由などといっているが、「私たち」に自由が操れるのか、そもそもそれを恐れているのではないか、「彼らは君たちの自由を恐れているんだ」、「そんなに自由が怖いのか?」という台詞が甦ってくる。自由については、様々な作品の中で取り上げられてきたテーマでもある。実際、自由と民主主義を一番怖がっているのが、「自由」と「民主」を標榜する政党であるという皮肉。自由、民主主義などとはまったく縁もゆかりもない、神道政治連盟、日本会議、統一教会等々と同体化しているような集団が何をどういってみたところで、標榜する内容との絶対的な矛盾は避けられない。この集団と同体化することを「宿命」とする者たちしか認めない、すなわちそれ以外は排除するということは何処を見ても明らかなことである。そこでは「自由」も、「民主」も有名無実なのである。日本の伝統、歴史などといったところで、「歴史はその時代時代の権力者の手によって書き変えられるのが常である」ということを念頭に読み解かなければ、凡庸な学者のパラダイム、視野狭窄的な訓詁学的解釈から導き出された何とも貧相で平板な内容に振り回されるだけである。さらに、その歴史的内容を偏狭的な宗教的デコレーションで異様に膨らませ、飾り立てられたものを無反省に継承しようとすれば、何度でも同じ過ちを繰り返し、永遠にその悪循環から抜け出せなくなるということである。

 こうした流れ、成り立ちを見ただけでも、たとえ、政権が変わったとしても一朝一夕に変わりえないことは、余程のオメデタイ者でない限りわかるはずである。ただ、これ以上後退させないためにも各自の追及の手は止めるべきではない。疲れたら休めばいいだけのこと。自由を恐れる者たちが、自由を嫌忌する者たちを巧みに吸収し、手慣れたカルト的手法、詐術で怪しげな方向に誘導しているのである。その弊害は、やがて手をこまねいて見ている人々のところまでくるということだけは確かなのである。

 どちらにしても、我々は、自由を恐れる者たちを注視し、自由を求め続けねばならない。というより、我々は自由であることがそれこそ「宿命」として課せられているという実情を直視しなくてはなるまい。

                2023 6/19

 

アーカイブ
TOP